ニセ科学について色々

これまで書き留めてきた事のおさらいでもありますが、改めて。

科学とは

科学というのは、方法であり、手続きであり、それによって得られた知識の体系の事です。

科学は、常に誤っている可能性を持つ(プラグマティズムなどで言う可謬主義)体系です。その意味で、科学とは真なる知識であるとか、科学は真理追究の営みであるといった主張は成り立ちません。

尤も、真理を、哲学的に議論されているような意味合いで無く、現象の仕組みくらいの意味で用いる人もいるでしょう。そういう場合は、意味の確認をその場でおこなって議論を調整すれば良い事です。

ちなみに私は、哲学上の難問を考慮して、真理なる語そのものを、ほぼ用いません(ソシュール記号論にかぶれていた時期もあって尚更)。

ニセ科学とは

ニセ科学とは、

科学のようで科学で無い言説

です。科学は、方法や手続きをも含めた総合的な概念であって、常に誤り得る(言い換えれば、完成に至るという事が想定されない)と先に書きましたが、それを踏まえ、科学に、特定の方法と手続きによって構築された知識体系を代入して適当に整えれば、ニセ科学とは、

特定の方法と手続きによって構築されたものでは無いにも拘らず、そうであるかのように表現される言説

と言う事も出来ます。

ここで極めて重要なのは、

ニセ科学ならば誤っている

と評価しているのでは無い

という所です。

科学は、常に誤り得る知識であると言いました。そしてニセ科学は、科学では無いという条件を備えています。ですから、論理的可能性として、

評価時点での科学が誤っていて、ニセ科学が正しい

事が否定し切れません。ですので、ある言説に対して、それはニセ科学だ、と評価する事は、

その言説は成り立たない(誤っている)

と評価するのでは無い訳です。そうで無く、

その言説は、科学の方法と手続きによって(評価時点での)標準と認められたものでは無い

と評価しているのです。そして、それより先の事は――現象が実際に成り立っているのかとか、今の知識よりよく説明出来るものなのかとか、将来どうなるか、といった事――何とも言えないのです。

これは初めから、科学の限界を弁えた評価態度です。それを押さえておけば、ある言説をニセ科学と評価する事への反論として、

あなたはこの説に対してニセ科学などと言うが、今はともかく、将来は証明されるかも知れないではないか

といったような主張は、的外れである事が解ります。将来認められる事は、現在認められていない事と矛盾しないからです。
将来認められるかも知れないものを、現時点で認められているかのように言っている、という評価なのですから。

科学は、その時の証拠に基いて整備された知識であって、
非科学は、その時の証拠に基いて整備された知識では無いものを指す、という事をしっかり押さえておきましょう。そして
ニセ科学は、非科学なのに科学のように表現された言説
を指します。

時代

ここまでを考えると、評価対象の言説が主張された時代が無視出来ない要素である事が解ります。 たとえば、19世紀以前の、現在のような科学の制度化がなされていない時代の色々な言説を、現在の尺度から評価する事は、適当で無い場合があります。たとえば、ニュートン錬金術ニセ科学か、などというものです。

また、当時の時代背景を勘案して、その当時の標準的知識に照らしてどうだったのか、という事を問うのも難しいです。上にも書いたように、19世紀以前だと、査読制度も確立されていないし、統計的方法によるデータ解析も整備されていません。そういう時代の話に、現代の議論としてのニセ科学をそもそも持ち込んで良いのか、という事になってきます。

周知の目的

ニセ科学というものがある、のを世間に知らしめる事の目的について。

まず、誰に向けるかの問題があります。その言説を主唱する人そのものか。あるいは、そこに近しい人なのか。それとも、著作やテレビ番組での紹介で触れた、カジュアルな人々か。

そのように、信じる、と一口に言っても、その様相は、をなしている、と考えられます。

私は以前、主唱者とそこに近い(たとえば、一緒に研究しているとされる人)所にある人達の事をコアと表現しましたが、そのコアの人々に直接、それはニセ科学であるとぶつけたとしても、対象はそもそも、標準の方法を無視した強固な信念を形成しているでしょうから、容易に認識を改めないであろう事は想像しやすいでしょう。
そういう対象に限定すれば、ニセ科学言説を批判する事は無意味なのではないか、というのも概ね成り立つのやも知れません。

けれども、先に書いた、カジュアルに信じている層や、合理性を重んずるが、科学の具体的方法に疎い層などに対しては有効に働く可能性があります(私は後者の例です)。
また、シンプルに、科学的に見えるようなもので実はそうで無いものも混じっているという程度の周知をあらかじめしておけば、備えておく事が出来ます。

それから、理想的な情況として、強固に信じている人にも解ってもらう事も目指すのが肝腎であると、私は思います。
その意味では、ビリーバーは説得できないみたいな言い方は、私はしませんし、好みません。
それは、どうやっても認識を改めない人をビリーバーと定義しているだけのように見えるし、また、諦めずに説明の方法を工夫し続ける事を常に考えたい、という認識があるからです。

他の問題への関心

ニセ科学の議論は、ある特定の方法や手続きに則っているか否か、を物差しにして評価する、という射程です。そういう議論をしている人は、関連するであろうその他の問題に無関心である訳ではありません。あくまで、かなり限定された部分についてどうか、の話をしているのであって、関連の議論について、ニセ科学に注目する者はこれについてはどう考えるのか、と言われても、それはひとまず別の議論であると返すほかありません。あるいは、差別問題など、関連する領域をニセ科学概念に含めるような事も避けるべきで、徒に概念を拡張すると、議論の射程が定まらなくなります。