絡み合い、湧き上がる

私のブログやトゥウィッターをお読みの数少ない方々はご存知かも知れないけれど、私はWEB上では、
「嫌いな作品について語らない」
ことにしている。自分はこれこれが嫌い、その理由はこれこれで〜といった具合のね。

ある創作物を評価する場合――その「評価」の仕方には色々あるだろうけれど、ここでは、「好き/嫌い 面白い/つまらない」といったようなものを考える――大抵は、自身のその評価についての分析的な解説が付随する。たとえば、画のデザインがよくない、構成が悪い、BGMがパッとしない、等々。
作品の好き嫌いという「感じ」それ自体は直感的で「統合的」なもの。意識的・無意識的 な、色々の部分への評価が合わさって、それが出てきた結果だ、と言える。喩えを用いれば、湧き上がるようなもの。
そして、その湧き上がってきたものの「理由」をなんとか言語的に表現しようとする訳だ。場合によっては、「自分がこれを好き/嫌い なことには合理的・正当的 な理由があるのだ」とアピールするという動機も(意図的非意図的に拘らず)あるだろう。

作品を(好き/嫌い と)評価する場合――いや、何かを「評価」する場合には一般に――その対象を構成する様々の要素(要因)をそれぞれ部分部分で評価し、結果として総合的全体的評価が下される訳だ。

ごく単純な例を出そう。中間試験や期末試験などの、複数教科のテストの点数だ。とりあえず、国・数・英・社・理の5教科としておこう。これは単純だね。それぞれの教科ごとに点数が出て、その単純加算、つまり足し算の結果が合計点として弾き出される。この場合に合計点そのものにどういう本質的な意味があるのか、という論点も出てくるけどそれは措いといて、ともかく、明確に数値は出る。

今の例は簡単だ。そもそも点数をつけて客観的な評価を行うために作られた指標(尺度)なのだから、そのテストを受けさえすれば、数値として出てくる。5教科の「5」というのも、初めから決まっている(なぜそう決められたか、についてはもっとメタな所での議論はあるだろうけど、今は喩えに用いているのだから措く)。
対して、創作物の評価については、そうシンプルにはいかない。
ここではアニメ作品で考えるとしよう。
アニメを評価する、といっても、その評価に関わる要因というのはいくつも考えられるだろう。音楽・画・話の構成・キャラクターづけ・声の配役 等々。ここでは単純化しているが、きちんと考えると、一口に音楽と言っても、主題歌・挿入歌・BGM など色々ある。画でも同様だろう。それらはより下位の要素に分解出来るかも知れない。
我々は、ある作品を評価する際に、これらの要因にそれぞれ「点数をつけて」(括弧書きなのは、それが文字通りに数値を充てるのではないのを意味している)、その組み合わせとして「総合点」が弾かれる訳だ。

だけれども、さっきも言ったように、ことは5教科のテスト得点のように単純にはいかない。というのも、評価においては、「間隔」や「重み付け」が重要だからだ。
このままではピンとこないだろうから具体的に説明してみよう。
仮定として、アニメという作品を評価する場合には、その部分として「5」つの要因が考慮される、と考えてみる。ここでは、

  • 音楽
  • 構成
  • キャラ立ち

の5要因とする。
テストの点数と対応させれば、これらそれぞれに点数をつけ、その総得点が全体としての評価となる。でも、そう単純にはいかない、というのはすぐ分かるはず。
まずは「間隔」。
身長や体重などの物体の量が計量出来るのは、誰しも分かる。それは客観的に観測出来、機器によって測定が出来る(誤差の話は措く)。そして、その「間隔」は一定。1cmと2cmの差、と5cmと6cmの差、とは同じだ。だけれども、たとえば画などを評価する際には、そのようなやり方はされていない。せいぜい出来るのは「順序づけ」くらいで。仮に、今まで観たアニメ100作品の画を好きな順に並べるよう言われた場合に、それが出来たとしても、その「間隔」が全部一緒ではない、というのは分かると思う。

次に「重み付け」。再びテストの得点に戻る。
中学や高校で行う5教科のテストでは通常、100点満点×5教科 で評価され、その合計によって順序づけられる(成績がつく)と思う。この場合には、全ての教科の点数が同じ意味、というか価値を持っている。つまり、
2教科合計が
国:50
英:100
の人と、
国:100
英:50
の人の順位は同じになる、ということ。つまり、国語の50点と英語の50点は同じ価値を持つ。

アニメで言えばこれは、画と音楽に同じ「重み付け」を行うということだ。でもこれは変だよね。ラーメン屋に行って、ラーメンは超美味かったが水がクソ不味かった店と、ラーメンはクソ不味かったが水が超美味い店、を同列に扱わないでしょう?(中にはそういう人もいるのかも知れないが)
しかも、ラーメン屋の場合には、ラーメンの味が重視されるのは当然だけれど、アニメだと、たとえば甲氏と乙氏がいて、甲氏は画に拘るが、乙氏は音楽をより重視する、なんてことはよくある。ラーメン単体(と、その部分としての、麺やスープ)を評価するのに近いかな。

厄介なのは、その重み付けが、対象を評価する人々で一定していないのと、そもそも個人の中でも変動する可能性のあること。要するに、これは画がダメだからつまらん、、、というのもあれば、画はひどいけどその内慣れるよ、というのもあり、更には、前は画は気にならなかったけど、注意して見るようになった、なんてことも考えられる。観直したら評価が変わってしまったってこと、ありません?

ここまでのことを踏まえると、個人による作品の好き嫌いの判断とは、対象を構成する要因それぞれが重み付けられて評価されるという過程→それが総合された結果 であると言える。ちょっとそれっぽく言うと、個人の中に、作品を評価するための「評価モデル」のようなものを持っている訳だ。それは個人個人で違うもので、基本的にはブラックボックス的。自分で内省して要因を見つけ出し、それを表にして点数をつける、という人はあまりいないだろう。しかも、個人内でも変容の可能性がある。

最初に、私は「嫌いな作品については書かない」という趣旨のことを言ったが、巷では、自分が嫌いなものについて、「いかに嫌っているか。その理由」、を実に詳細に解説しているテキストをよく見かける。そして、その解説が客観的な評価であるかのような「分析」も見ることがある。まあ、はっきりと言ってしまうと、「自分が嫌いなものが受けているのはおかしい」と言わんばかりのものね。自分が客観的に評価してつまらないと思うのを面白いと判断する人はおかしい(そうはっきりとは表現しなくても)、みたいな。自分の好き嫌いを言うだけじゃなく、他者の「評価を評価する」のはつまり、「評価モデル」に一般的・普遍的 なものがあると想定しているってこと。そして、自分はその普遍的なものを見出していると考えている。
大概、作品評を行う場合、任意の要因をいくつか採り出し、それについて分析を行い、より総合的な評価の根拠として解説する。それぞれの要因自体の関連性や、要因の重み付けの妥当さに対する反省、などは見かけない。
いや、色々な観点から分析しているのはある、という意見が聞こえてきそうだけど、私が言ってるのは、「思う」の寄せ集めではなくて。多少とも定量的な(つまり、みんなが納得するように測れるようにする。これを数量化という)志向があるもの。

自分の「好き嫌い」の判断がどのくらい「確か」なものか、という視点もある訳だ。それは何? 実体的なもの? それとも生理的な反応? その時の気分などの要因によって左右され得るもの? 等々。相対的な順位付けしか出来ないのか、それともある程度でもはっきりと等間隔で位置づけられるのか。

マーケティングリサーチなどでは、これらが積極的に定量的に分析される。アンケートなどで多数のデータを集め、その各要因(これらを「説明変数」などという)が結果にどう寄与しているかを解析し、モデルを見出していく。結果というのは、売上であったりアンケートの答えであったりね(このようなものを、「目的変数」などという)。まだはっきりとはしていない、結果に特に強く関係する要因(これを「因子」などという)を見出したい、という場合もある。マーケティングは当然、商業的な指標が重要だから、目的変数としては、さっき出した売上だったり、「好き/嫌い」「面白い/つまらない」などを段階的に分けて(とても好き/好き/どちらでもない/嫌い/とても嫌い とかね)訊き出したものを使う。必ずしも厳密に測れなくても良い。それは知りたいものは何か、という目標にもよる。

作品ってのは、沢山の人が真剣に取り組んで、やっと結晶したもの。もしそれに対するネガティブな評価を広言するとしたら、それも真剣に、客観的・分析的に行いたい。だから自分は、嫌いなものについては書かない(というか書けない)。友人同士でそういう会話することはあるけどね。その場合には、「評価モデル」が似通っている、つまりある程度共有出来ているとか、違った部分を理解し合っているからとか、そういう了解が取れている。WEBなんかだと、不特定多数に見られる可能性があるから、より慎重になる。
特に、今題材にしているものの評価は「価値観」に大きく関わるもので、「主観的」であるので、そもそも難しい。それをどう客観化して分析していくか、というのは人文・社会 科学的な重要テーマでもある。いくら先人の――古の哲学者であるとか文豪であるとか――言を援用して「分析」のようなことをして見せた所で、それが妥当であるとは限らない。

評価と数量化のはなし―科学的評価へのアプローチ

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