一筋選んで抓み上げる

続き。こっちを見てくれてる人向けw

前エントリーでは、創作物の評価は、対象の様々の要素についての評価が絡み合った結果だ、というのを書いた。多変量が関連し合っている現象という訳だ。

これがどのくらい複雑かというと。

作品評の「道筋」を考える。
アニメでも何でもいいけど、まず制作発表がなされる。その際、注目を集めるための色々な宣伝がくっついてくる。有名プロデューサーが手がけたとか、人気の役者が声をあてた、とか。そこでまずバイアスがかかる。
そのバイアスがかかったまま、完成した作品に接する。先入観てやつね。元々持っている印象がネガティブかポジティブかでまた違う。「○○が関わっているにしては」というのは結構ある。

某むいみ氏wが書いてらしたけど、関心を持てば持つほど、分析的に考えるようになる。作画監督とか役者の声の区別とか。作曲家は誰か、とかね。で、その意識的な分析が出来た方が「正確な評価」が出来るのかそうでないのか。それほど詳しくない人が評価するよりも信頼出来るのか。「好き嫌い」―「良し悪し」の問題として。
料理の評価において、「子どもの舌は正直だ」、なんてのがあるね。先入観がなくより正確な評価が、、、ということの象徴的な表現。こういう文化的産物を対象にした時、そもそも客観的な評価ってのは存在し得るのか、という根本問題が必ずある。※私は「ない」と思っている。文化的には相対主義的立場なので

ちなみに個人的には、役者が誰か、という部分以外はほとんど考慮しない。有名な作画監督やアニメーターを一人挙げろ、と言われてもほぼ出てこない。

滅多にフィクションの評価はしないけれども、『バガボンド』について書いたことがある。あの時は、評価の基準を明確にして書いた。つまり、実際の剣聖の身体と動きを描けているか、という観点。そこに絞って評価を行い、その他の部分については言及しなかった。その時も、作品全体の評価としては傑作である、というのをあらかじめ書いてたりする。書いたのは、広い意味で「考証」に関する所だね。

閑話休題
そういうバイアスがかかると、そのバイアスを正当化するために全体的な評価ごとコントロールされてしまう、というのもある。別の人が手がけたものならけなした/褒めた ものであっても、「あの人が関わっているから」ということで、そこに「ウエイトを掛けて(大きく重み付け)しまう」という訳だ。これは、重み付けが個人内でも変容することの一つの形態と言える。詳しくなるが故の難しさ。構成に破綻があった場合に、「裏の意図を見る」とかね。他の人がやったら非難するかも知れないにも拘らず。要因は無数に挙げられるからね。そこから恣意によって選択してクローズアップする。そのウエイト掛けに根拠づけはせずに。もちろんそれは、意識的ではない。
他者の評価が重み付けを変えることもある。掲示板やブログの評論を見て影響される、とかね。その場合にも、書き手が誰かによって色々変わるだろう。

そこら辺の論理も多数絡んでくる。だから難しい。