改めて、「信じ方」と、「科学では〜否定出来ない」について

ホメオパシーなどの言説について、科学の体系では論理的な否定は出来ない、という意見。情報学ブログさん発端のあれですね。
実際、アド・ホックの言い逃れを延々と行うのを考えれば、科学による批判には限界がある、あるいは、次々に論理構造を変容させていくから否定をしきるのは出来ない、というのはその通りではあると思います。
基本的な部分としてそこを押さえておくのは確かに大切で。それは、科学の文脈での批判が通用しない層があるのを自覚するという意味合いもあると。

で、今「層」って書き方をしましたけれども、ある言説を信じる人の集まりを考えた場合、その「信じ方」はある程度の多様性があり、何らかの共通点で括ってみるならば、信じ方の異なりによって多層構造を形成している、と考えることが出来ます。
私は以前、このようなエントリーを書きました⇒信じ方: Interdisciplinary
ここでは、言説の信じ方にも色々あるから、説得の仕方にも当然色々あるだろう、と書いてあります。※その流れで、水伝の反証実験を行うのも有意義では、と書いていますが、今はその立場ではありません

「どう信じるか」というのは、どの経路で接したか、既有の知識はどのくらいか、などの様々の要因が絡み合って形成される認識であると思われます。ですから、テレビでたまたま観てなんとなく、という人と、何か人生における重大なイベントをきっかけにして能動的に情報を求め、その結果出会った、という人では、有効な説得の方略も異なってくるはずです。

科学では〜否定出来ない・・・の話に戻ると。言説の主唱者、それを強く支持する人、あるいは主唱者を人格的に強く信頼する人――私はそれを、「コア」にいる人々、と呼んだりしますが――そういう人にはやはり、科学の文脈での説得は通用しにくいでしょう。土台に「現代科学の欠陥」などを持ってきて言説を構築している場合もあるので、「科学では〜」と始めたのでは上手くいかない可能性があるのは、ある意味当然と言えます。いかようにでもアド・ホックな言い逃れをするので、科学的方法での追及には、いずれ限界が来ます(それは科学の責任ではなく、方法の特性)。言説を支持するといっても、全体の論理的整合性あるいは時間的な一貫性(前と言っていることが違わないか)をも見て支持するとは限らないから、全体をぼんやり見て、やはり自分の信頼している人の言う方が説得力がある、と(バイアスにより)認識する場合も当然あるでしょう。

では、科学による批判はどういう層に向けているか、と考えれば(もちろん、コアに向けてそれが有効に働く場合もある)、それは主に、「科学にある程度の信頼を置いており(意識的無意識的に関わらず)」、かつ当該言説が「科学的に根拠があるかのように」認識している層、となるでしょう。当然、具体的詳細に見れば、その受け取り方も様々あるでしょう。「科学的に〜」「科学で〜」「実験で〜」「論文が〜」などの字面を見て表面的に信ずる、というのもあるだろうし、現代科学の術語を鏤めた解説(例:ホメオパシーのメカニズムには、量子力学における量子もつれが関係している)を見て納得したり。いずれにしても、そういう人々は、「なにやら科学的らしいぞ」といった確信を持つ訳だから、「より詳細な科学的説明」をもってすれば納得してもらうのは充分可能だろうと思います。

クリティカルシンキング 不思議現象篇』という名著では(これはニセ科学論の基本文献として、伊勢田哲治氏の本とともに私がお勧めする本です)、論理的可能性と物理的可能性が分けて論じられています。物理的可能性というのは、これまで膨大に、経験的に*1積み上げられた知識によって構築された知の体系に則って考慮される可能性であり、論理的可能性とは、一般的な論理学的命題として考えた場合にどうか、というものです。前者は、経験科学、とりわけ物理学の知識への信頼を前提としているので(具体的に理論を知っているか、は問わない。現代物質科学が世界を適切に記述出来ている、という信念がある程度でも形成されていれば良い)、当然、そこに疑念を懐いている人には通用しにくい訳です*2。でも論理的に(という言葉は使わなくても)こうも考えられるんじゃない?というのはどこまでも言えて、それは科学の外にあるものだから。様々なニセ科学的言説を見れば*3、そのような事例はいくつも確認出来ます。

つまり、説得――それが強ければ、「納得してもらう」でも良いけど、語感だから別になんでも――の文脈で考慮しておいた方がいいことをまとめておくと、

  • 信じる人の集まりには、「信じ方」によって様々な層があると考えられる
  • 信じ方によっては「科学」では説得しにくい
  • 物理的可能性(広げると、科学的可能性)と論理的可能性は同じではない
  • そもそも科学を信頼していない人に科学の合理性を納得させるのは、相当の努力と覚悟を要する
  • それは懐疑主義クリティカルシンキングの文脈では既に論じられている

と言った所でしょうか。最後のは付け加えですが、情報学ブログさんに批判的に言及した人の中には、それを考えていた方もおられると思います。まるで新たに発見したかのように書いているように見えたので、おいおいちょっと待って・・・となったと言うか。
まあ、それは余談ですが、既に論じられているというのは本当です。超感覚的知覚のようなものの検証において、「懐疑的な人間が実験に参加しているからそれが影響して成功しない」なんてのはよく聞かれる話で。実際にそれは論理的には否定しきれないけど、自ら検証への道を閉ざしていることになるよ、という批判がある訳ですね。

上でも書いたように、下記の文献は、クリティカルシンキングニセ科学論 における重要なものですので、参照するのをお勧めします。

クリティカルシンキング 不思議現象篇

クリティカルシンキング 不思議現象篇

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

*1:ここで、経験的にとは、よくデザインされた実験・観測・観察 によって得られたデータで、という意味

*2:しにくい、と書いたのは、不可能ではないから。信念を転換させれば説得は出来る。ただしそれは恐ろしく難しい

*3:科学を装っているが、それは所詮摘み食いなので、好きなように切り貼りして詭弁を弄することが出来る