続・レメディとプラセボ

昨日書いた、

  • レメディは医療で使用すべきではない。
  • 標準医療において、偽薬の使用は時に必要である。

これは両立するか、という問いですけれど。
私は「両立」する、と考えています。と言うより正確には、「両立し得る」。

レメディを使うべきではないのなら、偽薬も使うべきではないのでは? あるいは、偽薬を使って良いのならレメディも許容出来るのでは? といった疑問が出たと思うんですね。いや、私がそう仕向けた、ということなんですが。

レメディも偽薬も「同じ」と考えれば、両方肯定するか両方否定するしかありません。同じなのですからね。でも実際は、「違う」。

物体としては効かないんだから同じでは、と言われるかも知れません。確かにその部分についてはそうです。では何が違うかと言えば、「意味付け」や「背景」。
要するに、標準医療で使われる偽薬は、「”標準医療体系内で効く”と思わせる」訳です。詳しい仕組みについて語らなくとも、「医師が勉強するようなものの仕組みに従って効くのだろう」という、メカニズムの「背景」への直感を惹起させる。
それに対して、ホメオパシーレメディは、ホメオパシーという信念体系内で価値付けられた概念です。実質的(物理的化学的)にはそれは砂糖玉や水などでしかないけれども、それを取り巻く様々な概念装置(なんか小難しいですが)によって意味付けられる。いわく希釈振盪、いわくバイタルフォース、いわく水の記憶、いわく量子力学、等々。

ですから、ホメオパシーのレメディを使うという行為はすなわち、「ホメオパシーの体系ごと使う」のを意味します。流派間の差異はあるでしょうから、そこを削いでいくと、おそらく希釈振盪の部分は必ず残るでしょう。科学志向が強ければ、バンヴェニストの援用もするかも知れません。

実体としては「効かない物」であるけれども、どのような信念体系内に位置づけられるかによってその価値は異なる訳です。それを踏まえれば、最初に問うた二つの主張は両立し得ます。何故なら、言葉を補うとそれは、

  • ホメオパシーの体系を前提とした)レメディは医療で使用すべきではない。
  • 標準医療において、(標準医療内でのメカニズムを想定させる)偽薬の使用は時に必要である。

となるから。
ホメオパシーレメディを使うとすれば、その原理とは密接不可分なので、「説明」は避けられません。少なくとも、「ホメオパシー」か「レメディ」の名前、もしくは「作られ方」や「作用の仕方」は患者に与える必要があります。「ただ砂糖玉を出す」とすれば、それは「標準医療内での偽薬」をしか意味しないからです(心理学的に文脈効果を援用出来るかも知れない)。そして、その名前、あるいは仕組みらしきものを説明すれば、好奇心のある人、勉強熱心な人は調べます。今時はICTが発展しているので、情報も膨大。仮に「ホメオパシーを医療が取り入れるのも場合によっては・・・」といった意見があるとすれば、その場合に起こるであろう齟齬を考える必要があるでしょう。
尤も、非常に大きな事件に展開したので、ホメオパシーを医療に取り入れることに積極的な人は減っているでしょうけれども。※元々普及に活動的だった団体は当然、「ホメオパシーは効く」などの方向に行くしかない。偽薬だと認めることはほぼ考えられない(偽薬”効果”を曲解に基づいて大げさに言うことはある)。

レメディを医療に取り入れるべきではないと考える人の中では、このような論理が働いているのでしょう。だから、「偽薬を使うとすればそれは標準医療内の物として説明するべきであって、”ホメオパシーの出る幕ではない”」となるのだと考えられます。その場合には、「レメディ不使用」「偽薬使用」は両立するのです。
時折、ホメオパシーは否定するのに偽薬そのものは否定しないのは何故?という疑問を目にします。その人はおそらく、「両方偽薬なのに片方だけ排除するのは恣意だ」と考えているのでしょう。それは、ホメオパシーレメディと、標準医療内での偽薬、との文脈的な違いに目を向けていない、もしくは軽視しているのだと思われます。※もう一つの可能性は、それを踏まえた上で、次に書く私の考えと同様に至ったもの

尤も私は、偽薬の使用自体に反対しているので、背景を考えれば標準医療内の偽薬の方は許容出来るのだ、とは主張しません。両方に通底する、「効かない物を効くと称して与える」ことそのものに問題があると考えるので(詳しい理由は、上のホメオパシーでの話と同じ。レメディでなくとも、一般に偽薬が与えれれば、説明を求められたらどう答えるか、という問題になる)、偽薬を使用する差異のコンテクストがいかなるものであってもそれは許容出来ないと考える訳ですから。