間違える科学

先日紹介した本で、科学や科学者は間違え得る、という事が書かれているのを挙げましたが、それに関連して、自分が書いたものを載せます。
「科学的」に考えるために - TAKESAN | ブクログのパブー

▼ 引  用 ▼
○科学は間違え得る
 科学の特徴の一つとして、「間違え得る」ということがあります。科学の方法は、実験や観察などによって得られたデータから、現象を説明する理論を作っていったり、仮説を立てて、それに合致する証拠が得られるかどうかを、実験や観測でもって確かめる、というやり方を、行ったり来たりと繰り返して知識を積み重ねて、方法を洗練させていく営みです。これは観点を換えると、仮説が外れていたり、正しいと思われていた理論が後から調整されたり、新たな証拠によって、別の説が支持されたりする可能性が常にあるのを意味しています。

 つまり、ある時期に確からしいとされている知識が、常に「修正」される可能性を持っているのです。いわば、ずっとアップデートし続ける知識の集まりということです。
 こう説明すると、なるほど、そんなに不安定なものなのか、科学とは信頼のおけないものなのだな、ともしかしたら思われるかも知れませんが、実はそういうことではありません。
 科学は常に調整や修正がされる可能性を持つ、といっても、それは、科学全体の知識がひっくり返ったり、それまでのものが全く何の役にも立たなくなる、といった大変革が簡単に起こる、というものではないのです。世間で、科学について何か語っている意見を見ていると、ここのところを勘違いしている人がたまにいます。
 そういった主張をする人の言い分を見てみると、どうやらこういうことのようです。つまり、科学は間違え得る方法と、それによって得られた知識のことなのだから、しょせんは科学なんて不安定で、全然信頼出来ないものなのだ、と。しかしながら、これはとても極端な見かたです。
 ここまで繰り返し述べてきたように、科学というものは、いろいろな実験や観測、観察などで得られたデータに基づいて構築されてきた知識と、それを見出していく方法とのことですが、その知識は、さまざまに「応用」がなされていて、その成果が科学の知識の確からしさを支持してきていると言えます。
 たとえば、私達の社会では、力学などの知識に基づいて設計され製造されている機械であったり、身近にあるいろいろな工業製品であったりが、一定の水準の品質を保って提供されています。そして、それらがそう簡単には壊れないと信じ、全く考えもしないような動作をすることもそうそうないだろう、と考えて、安心して使用して、生活を便利にしています。
 もし、科学の知識がとても不安定で、全然信用の置けないものであるのならば、いったい、その科学の知識に基づいて作られているものが、なぜこんなに安定しているのか、という風に想像してみて下さい。自動車や飛行機などの乗り物が、安定して、思うように走行したり飛行したりする、というのもそうです。そういう乗り物は、力学や機械工学の知識に基づいて設計されて、実際に走行テストや風洞試験などを経て、信頼出来る品質が保たれていること、要求されている性能をきちんと備えていること、が確認された上で、消費者のもとに届けられるのです。
 他にも、人工衛星が飛んでいるのも、テレビが映って好きな番組を視聴出来るのも、それが物理の知識と理論に基づいて作られているからですし、合成繊維で出来た丈夫な衣服を着て快適に過ごせるのも、化学などの知識が応用されているからです。
 もちろん、故障がたくさんあったり事故が起きたりして問題になることもありますが、そういう場合は、科学の知識が曖昧だったからそうなった、というのではなくて(そういう場合も中にはあるでしょうが)、製造する過程での品質の管理の甘さであったり、設計のミスであったりということが関連しているのであって、科学は信用出来ないのだ、とすぐに評価するようなものではないのです。

 そういったことを考え合わせると、科学は確かに間違え得るけれども、その知識と方法は、そう簡単に土台からひっくり返されるような、もろいものではないと考えられます。むしろ、確かに科学というのは、常に更新され得るものではあるが、大きな成果を達成してきた強力な知識と方法でもある、という風に見ておくのが大切です。もちろん、強力であるが故に、使い方を誤れば、悲劇的な事態を引き起こしかねません。しかしそれでも、科学は知識と方法であるのだから、それ自体に良い悪いはありません。要は「使い道」であるのです。

○科学は絶対ではない?
 時折、科学を批判的に見る人の意見で、「科学は絶対ではない」とか、「科学は万能ではない」といったようなものが主張されることがあります。そう主張する人は多分、テレビに出てくる「科学者」を見た印象だったり、フィクションに出てくるマッドサイエンティスト(今時はあまりそういう言葉は使いませんが)などを見て、科学を絶対だと信じる科学者がいる、といった印象を得てしまったのでしょう。
 また、公害事件などのエピソードを知って心を痛め、そこから、「科学の限界」や「科学者の傲慢」を感じているのかも知れません。
 しかし、本当のところを言えば、「科学が絶対ではない」「科学は万能ではない」といったことは、当の科学者自身が一番よく分かっているのです。
 これまで書いてきたように、科学は、実験や観察によって現象について解明する方法と、それによって得られた知識のことです。ですから、その知識や方法は、常に更新される可能性を持っています。それまで見つかっていなかった新しい現象が発見されたり、詳しく分かっていなかった仕組みについて判明したり。あるいは、詳細な部分の仕組みがよりはっきりと分かってきて知識が書き換えられたり。
 従って、科学というものはそもそも、「完成しない」という性質を持っていると言えます。それは見かたを換えて考えれば、もしも、既に科学が完成して、もうこれ以上知ることはない、という状態であるのなら、わざわざ好きこのんで科学に携わって研究する人はいなくなるだろう、と言えるということです。科学者は、科学が絶対ではないのを当然の話だと分かっているからこそ、日々研究にいそしみ、世界についてより深く詳細な事実を知ろうと奮闘しているのです。

○科学の限界
 また、科学は「確かめられない」ことについては何も言えません。得られたデータに従って、現象の説明はするけれども、たとえば、自分が生まれてきたのはなぜか、とか、ここにいるのはどうしてか、といった「目的」のようなものには、科学は答えることは出来ないのです。

第一章 科学とは
 もちろん、「多くの人はそれについてこう考えている」といったものは、心理学や社会学といった分野で確かめることは出来ます。その意味で言うならば、問いによっては科学の範囲に入りますが、それよりももっと根本的な(哲学的な)問いかけとして「価値」が入ることには、科学は答えられませんし、安易にそういうことについて、科学を引き合いに出して意見を言ってはいけないのです。そして、真面目な科学者は、ここら辺のところをきちんとわきまえて取り組んでいます。
 筆者が意見を参考にした何人かの科学者は、「科学が万能であるのなら、一番困るのは科学者だ。なぜならば、それでは科学者が失業してしまうからだ」というようなことを言っていました。これを見て筆者は、なるほどもっともだな、と思ったものです。
 もちろん中には、科学の観点から他の文化などを見下す人もいるかも知れません。科学こそ至高であり、他の文化には大した意味はないのだ、といったように。いないと言い切ることは出来ませんからね。筆者は幸い、これまでそういう人を実際に見たことはありませんが、人間は世界にたくさんいるので、探せばどこかには存在するのかも知れません。
 余談ですが、この、「科学が絶対だ、万能だ、と思っていて世間にそう主張する人、は世の中にどのくらいいるのか」というのを調べることも出来ますし、それも科学的な方法(社会科学の範囲)だと言えます。
 いずれにしても、科学者の多くが、素朴に科学の絶対さを信じて疑わない、などと安易に決めつけるのは間違っています。
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要点は、科学は間違え得るし、常に更新されている知識と方法である、という事と、「かと言って」全く信用出来ないものであるという風に考えるのは誤っている、といった所です。