賽は投げられた

前から思っていた事。放言です。

偏りの無い(6面の)サイコロを投げた時、それぞれの目が出る確率は1/6である。
この種の説明を見ていつも覚える違和感。
これは方向が逆で、
それぞれの目が出る確率が1/6であるサイコロを「偏りが無いサイコロと定義」する。
という事なんじゃないかと思ったり思わなかったり。

確率統計の説明って、現象を手がかりにして数理を理解させようとする工夫がよくありますが、それが逆にもの凄く解りにくくする場合も……という気がします。さっと流す人はいいかも知れませんが、私などは、この種の事に異様に拘ってしまうので…。つまり、「偏り」という概念と、数学的な「確率」の考え、そして、現実に存在する「サイコロ」という道具とをどのように結びつけるか。何故、「偏りが無い」という概念と「それぞれの目の出る確率が等しい」という事とが同じだと前提されているのか。みたいな所をいつも考えてしまいます。
それから、「偏りの無いサイコロって存在するの?」「偏りって、形状の話? それとも材質? それら全部ひっくるめたもの?」みたいな事は、誰だって考えつきますよね。で、具体的な事を全部総合して、「それぞれの目が出る確率が一様」というのを、「偏りが無い」と定義しているのかな、と思っています。そして、それは「仮想的」なサイコロですよね。論理的に存在は否定出来ないかも知れないけれど、あるサイコロについて、出る目が一様分布に従う、という事は証明出来ないと。
私としては、入門書でこそ、そこの部分からきっちり説明して欲しい訳です(前から書いているけれど)。そしてたとえば、ここで偏りが無いというのは、出る目が(離散的)一様分布に従うようなものを指すが、そのようなサイコロはあくまで仮想的なものである、みたいな補足を入れてもらえば、勉強する方は「割り切る」事が出来る。現実を考慮はするが、色々な事を理想化したりして考える所もあるのだ、という風に。言い方を換えると、現象と数理との関連、というのをより明確に意識出来る、となるでしょうか。

多分、私が書いているのは、とても素朴なものなのでしょうけれど、こういうのを考え、また、そこで躓いて数学を詰まらなく感じたり嫌ったり、という人は結構いるのではないかと感じるのですね。どんなに初学の段階であっても、数学的な事を教わる時には、同時に哲学的な所も考えると思う訳です。理論的な話は何となく解る、でもそれが現実の事とどう関わってくるのか、とか、それは実際に存在するのか、とか。「解っている人」には峻別出来ていたり当たり前だったりするのかも知れませんが、入り口にいる人にはなかなか掴めないものです。