ホリスティック、一般化可能性

実験研究と生態学的妥当性、的な所に関わる余談を書いてみましょう。

私が昔心酔していた論者に、高岡英夫という人がいます。高岡氏は、武術界では知る人ぞ知る論者、といった所で、武術やスポーツなどの身体運動文化を東大大学院で研究し、それらを科学や東洋的な思想などを融合させたアプローチでもって解明する事を主張し、色々な著作を発表してきた方です。

初期の著作はいかにもアカデミックな体裁を意識した風で、人文・自然・社会科学の様々な分野の知見を援用して、武道やスポーツを解明しようと試みています(こういうアプローチの仕方は、私のブログタイトルの素です)。単純に「面白い」です。
それで、高岡氏のアプローチの根本的な見方・視座が、「ホリスティック」というもの。つまり、単に要素を切り取ってそれを分析的に見ていくのでは無く、それぞれの要素の「関係」に着目しなければならない、という立場。論者としては、ソシュール現代思想の著名な人々(特に構造主義の論者と目される人)、分野的には、構造主義記号論、システム論、等々が援用されています。「ホーリズム」は「全体論」と言われる事が多いですが、高岡氏は、敢えて「関係主義」と表現しています(私はこの語は、論を的確に表していて好きです)。

そのような「全体的」なアプローチをする人はしばしば、実証主義的な方法自体を忌避する場合がありますが、高岡氏はそうしていません。スポーツや武道を解明するにも、自然科学的な、実体を対象とする方法を用いるのは必須で、物理学やバイオメカニクス的な観点から分析する必要がある、と明確に言っています。そこで氏は自身の立場を、「関係主義的実証主義」と標榜しています。

ホリスティックな立場を強調する人は、文脈とか状況の重要さを説きますが、高岡氏もそうです。たとえば、パンチ力を測定する機器で出された数値が実際のパフォーマンスとどう関係するのかとか、スポーツの動作ははじめから全体として構成されているのに、その一部を切り取ってきてトレーニングをするのは意味があるのか、みたいな観点から、現代の科学的な方法を批判的に検討していました。面白かったのは、ある超一流のボクサーが、パンチ力測定器を叩いたら、大した数値が出なかった、というくだり。そこで高岡氏が書いていたのは確か、そのボクサーにとっては、パンチ力測定器を叩く動作というのは、史上始めて行うものだったのだ、という事でした。同じ「パンチ」という動作に外見上は見えても、その実態、パフォーマンスの中身としては全然異なっていたのだ、という事でしょう。当時、なるほどと思ったものです。
高岡氏が批判する所の、全体的なパフォーマンスから一部を切り取り、それをトレーニングや数値化の対象とするような見方、これもしばしば、現代科学を批判する人から言われる所の、「アトミズム(要素還元主義)」というものですね。

実際、そのような、「全体」や「関係」を考慮するのは重要な観点です。それぞれの要素がどういう関係を取り結んでいるのか、どういった構造を持っているのか、といった見方は必須。何かを評価しようとする際に、全体の構造を無視して分解し、切り取ってきたら、結局全然違うものを調べていた、というのでは話にならないのはその通りです。

けれど、科学を批判する人のある部分が的外れなのは、まるで科学がそういう観点を全然持っていないかのように言う所。要するに、重要な所を強調し、それは実際重要なのだけれど、ある対象(ここでは科学)は「それを重視していない」と言って批難する。
科学がシステム的な見方を重視してきたのは、先日のエントリーで、大村平さんの約40年前の文章を引用して示しました( システム・連関・ホリスティック・科学 )。また、それぞれの要素間の関係などに着目してないのなら、多変量解析の方法が発展するはずも無いと思います。全体や関係を無視するのなら、なぜ心理学などの方面で、構造方程式モデリングなどの方法があるのでしょう。多変量解析の方法も数十年前から研究されている分野です。

また、これも前のエントリーで紹介しましたが、心理学領域でも、生態学的妥当性という事が言われます。実験的な状況で調べられた事は、実際の生活の場に当てはめられるのか、という観点。一般化可能性とも言えます。これは、記憶などの日常認知の研究などで議論が起こります。

という訳で、科学を批判する人が言うホリスティックな見方、つまり、全体や関係、構造等に着目する視座が重要なのはその通り、だが、科学がそれをやっていないと言うのは当たらない、という事です。科学に不案内な人がいきなり科学批判を目にすると、尤もらしい「重要な部分」(ここではホリスティックな見方)を示され、「なるほどそうか」となり、科学はそれが不充分である、と言われ、「なるほどそうか」となる。私が実際そうでした。「科学」に興味を持ったのと、「科学批判」に触れたのが同時、だったのです。
けれど、後になって、科学そのものを勉強してみると、何の事は無い。その重要な視点というものは、既に科学は備えていたのです。自分の科学忌避は一体何だったのだろう、そう私は感じました。

武道の科学化と格闘技の本質 (武道論シリーズ)

武道の科学化と格闘技の本質 (武道論シリーズ)

↑多分、「ホリスティック」や「構造主義」などを言って科学を批判する人の論の具体的な所を知るにうってつけです。『スポーツと記号』は難解過ぎる。変な話、私は、代替医療統合医療の人が、「ホリスティック」を云々した場合、そこら辺の人よりは解ると思います。通ってきた道だし。

日常認知の心理学

日常認知の心理学

↑日常認知の心理学的研究について。生態学的妥当性などに関わる話も出てきます。