統合医療推進の根拠と思想

2012年5月29日追記:とても重要な補足があるのでお読み下さい⇒『「統合医療」のあり方に関する検討会審議会』第二回議事録の検討とお詫び
先日来、統合医療について書いています。そこでは、統合医療の評価にRCT(無作為化対照試験)が馴染まない、という意見を採り上げて考察してきた訳ですが、その意見が出された検討会の議事録が公開されていたので(第2回の分は未公開)、そこから関係しそうな部分を引用してみます。特に重要と私が思う部分には強調+色を付けます。※発言者の名前の部分が判別しやすいように強調する
「統合医療」のあり方に関する検討会審議会議事録|厚生労働省 より引用

〇門田構成員 わかりやすくお話しいただいたのですが、私たちも、最後におっしゃっていただきました統合医療の評価基準の検討と作成という点で、どう評価されているのかということは常に疑問に感じていたところですけれども、たちまち学会として、この辺りの基準あるいは評価はもう既に行われた、その辺りのことはどこまで進んでいるのでしょうか。
〇渥美参考人 文科省の研究が3年続いたのですが、そのときの一番大きな問題点は、どのようにして評価するかという基準をつくることだったのですが、それが最後までなかなか結論が出なかったわけです。理由は、いわゆるランダマイズ・コントロールスタディというような方法でやると、これでは十分にできない分野がたくさんあるというようなことですね。特にこういう統合医療のある分野に入りますと、個人のレスポンスが違う。こういうものをどういうぐあいにしてランダマイズしてやるかということはなかなかできない。ですから、例えばがんの統合医療評価を今アメリカのがんセンターでやっていますが、個人的評価をどうするかというので、なかなかいい結論がまだ出ていない。そこで、総合的にいろいろなデータを集めてやるというようなことで、評価・基準をつくるのは非常に難しいというところまでは出ていて、我々、文科省の3年間のスタディの後、欧米を回ったのですが、今言ったような個人的な評価まで入れるとなかなか難しいと。しかし、やれるところはランダマイズ・コントロールスタディをやれますので、そこがやれるところはやっていくし、やれないところは、新しい基準をつくるというようなところまで来ているというわけでありまして。ランダマ・コントロールスタディでやれるところはできるだけやっていくというぐあいにやっていくしか手がないのではないかと思っております。

ここは、渥美参考人日本統合医療学会理事長の渥美和彦氏)が、統合医療の評価にRCTが向かない事を説明している部分です。これを見ると、「個人のレスポンスが違う」という事を挙げているだけで、特に詳しい理論的な説明、つまり、何故「個人のレスポンスが違う」とRCTが評価の基準として不充分となるのか、その具体的な理由は明らかにされていません。なので、以前に公開されていた資料の要約と、ほとんど内容は変わらないものです。
ただ、第2回検討会( 「統合医療」のあり方に関する検討会審議会資料|厚生労働省 )の様子を紹介した記事( 統合医療も「EBMで評価できる」−厚労省検討会で福井聖路加国際病院長(医療介護CBニュース) - goo ニュース )では、

現在、治療のエビデンスを証明する実験方法としては、より正確に治療効果を判別できる「ランダム化比較試験(RCT)」が主流となっているが、従来の近代西洋医学に漢方やはり・きゅう、サプリメント療法などを取り入れた統合医療は、RCTで評価しづらいとされている。しかし福井氏は、「評価方法は、RCTでなければだめというわけではない」と指摘。被験者集団の健康状態を一定期間追跡する「コホート研究」などを例に、RCT以外の方法を用いるよう提案した。

とあるので、第2回の議事録が公開されれば、より具体的な理由(と統合医療支持者が考えるもの)が判明するかも知れません。
いずれにしても、第1回の渥美氏の言う所によれば、

やれるところはランダマイズ・コントロールスタディをやれますので、そこがやれるところはやっていくし、やれないところは、新しい基準をつくるというようなところまで来ている

との事ですから、「やれるところ」は何か、「やれないところ」はどういうものか、というのを、その理由――理論的考察や、統計学・実験計画法などの論理による――とともに明らかにして頂きたいものです。

次に、寺澤参考人(社団法人日本東洋医学会前会長であり、現在は東亜医学協会の理事長←議事録より引用)による、統合医療(と言うか、日本の漢方の特徴として述べている)の思想的部分についての説明です。

 結局、日本の漢方を特徴づけるのは、構造主義という言葉はちょっと耳慣れないかもしれません。構造主義に基づく医療体系であって、これは中医学と名をかえてもいいのですが、西洋医学は要素還元主義に基づく医療体系であるということです。そうしますと、統合医療構造主義を基盤に要素還元主義をも取り込んだ医療と定義してよいと、私は東洋医学会の前会長として見解を述べさせていただくのですね。こうすると、割と物がすっきりする。先ほど大島座長が力強いことを言っていただいたのは、私は科学原理主義者ではないとおっしゃられたのですね。うれしいのですよ。つまり、今の医学ははっきり言えば科学原理主義科学原理主義と言ったら何か。それは要素還元主義です。人間の体の不調とか心身の不調がすべて要素に細かく細分化していけば、トータルが理解できるというのが要素還元主義です。要素還元主義と実は医療技術が結びついたのは150年ほど前の話ですが、その間に、要素還元主義を手に入れたために、ここまで医学が科学的に進歩してきた。それはいい。ただ、渥美先生と私の意見が一点違うところがあるとすれば、これはこのまま放置しておいたのでは、決して両者の融合はあり得ないのです。よほど努力して統合するというベクトルを働かせなければいけない。そういうことです。このまま行くと、分散に分散を重ねていってしまう。医療の現場で今何が起こっていますか。臓器別に縦割りの医療がどんどん細分化している。私どもの時代には、第1内科と第2内科、あるいは第1外科と第2外科ぐらい、外科分野も2つぐらいだったのが、今は、心臓血管外科、消化管の外科、腎臓外科、甲状腺、乳腺外科とか、これは将来予測しますと、ますます細かくなっていきます。そうしないと研究の先端の部分は突き抜けられないわけです。お金とマンパワーをそこに入れていくということは、この動きは止まらない。特に我が国においては。これを統合していくという大きなモメントを働かせなければいけない。ここで、非常に幸いなことに、我が国は、今、渥美先生からNIHが巨大な予算をつぎ込んで、アメリカということで今は統合医療をやられています。また、あそこにはワイル博士というような人もいて、要素還元論は誤りだというところで全体的に持っていくという動きもありますが、それは必然的にはそこに行かないのです、みんな、まだ怪しいものだ、いかさまだと思っているところもある。しかし、幸いなことに、私たちは、日本は漢方という一つの構造主義的な、もともと統合医療の根幹を成すような考え方に則った医療を展開してきている。だから、一つのキーワードは、このことを足がかりにして、先ほど言われましたように、評価の問題とか、構造主義的な物の考え方をどう評価していくのかとか、あるいは、普遍性をどう担保していくというようなところをとっかかりにしていくと、統合医療全体の枠組みの中での評価とか取組の方向性が見えてくる。私の見解でございます。
 構造主義という言葉は人類学者のレヴィー・ストロースという人が唱えたことです。各地の神話とか民族学を研究しているときに、要するに、物事は一つの要素では決まらないと、いろいろ相互にある要素が連合したら全然違う意味を持ったり、ある特定の意味を持ったりすることに気がついて、物事は要素還元的には決まらないことを提唱したわけです。例えば漢方の処方で構造主義を提示しますと、よく使う桂枝湯というという薬があります。これは桂・芍薬・大棗・生姜・甘草で成り立っておりまして、感染症の初期、頭痛、悪寒、発熱、脈がこういう(浮・数・弱)状態で、自然に発汗する。自然に発汗して脈が弱いところが、葛根湯や麻黄湯とは違う病態です。同じインフルエンザにかかっても、虚弱な人は桂枝湯に落ち込んできて、これで対処できるということになります。おもしろいことに、桂枝去芍薬湯という処方が『傷寒論』という今から1800年前に書かれた本に書いてあります。桂枝湯から芍薬を取り去った処方です。中身は桂皮・大棗・生姜・甘草になりますと、桂枝湯が風邪薬に対処するものであったのに、この処方は、突然ホットフラッシュがあって、カーッとのぼせて動悸がして、物に追い立てられた気分になって不安感に襲われる。いわゆるパニック障害などに使います。こういう桂枝湯とは全く異なった処方として意味を持つようになるのです。
 もう一つ、桂枝加芍薬湯は、桂枝湯の中にもともと芍薬が入っているわけですが、その量を倍増したものですが、こうなると、お腹が急に痛んで、腸運動の失調状態があって、便秘したり、下痢したりする。いわゆる過敏性腸症候群と言われるような状態に対処していく薬になってしまうのです。
 ですから、漢方薬の研究も、よほど注意しないと、要素還元論者が、桂枝がどうなっているか、その成分がどうこう、芍薬はこうこうでとかというふうな話になっていくのですが、決して要素還元的なものを積み上げたからといって、最終的な経験値といいますか、各々が持つ処方の意味がわからない。今現在行われている中医学と日本の漢方の本質的な違いです。中国の人たちは、要素還元的に積み上げていけば正解にたどり着けると思っています。日本の漢方は違います。あるがままの患者さんの形をばっと見抜いて、ある病態が桂枝去芍薬湯が適応と成る容であれば、この処方で問題を一挙に解決するというふうな構造主義的な認識をしている。これが漢方の薬の面から見た構造主義の1例です。
 柴胡桂枝湯を具体例として挙げます。これは私が毎日使っている薬ですが、先ほどの桂枝湯に柴胡が入った、小柴胡湯との中間の処方ですが、急性熱性疾患の場合とか、慢性疾患の場合ですが、一つのパターンが、精神的には、神経過敏で、上下熱下寒というのは、上の方ばかりのぼせて、足が冷えてしまう。汗をかきやすく、暑がりで寒がり、消火器系の愁訴を伴うことがあって、時には慢性膵炎とか、急性膵炎の腹部の激痛とか、そういったものにも応用されるわけです。そして、胸脇苦満と言って、肝臓のところを圧迫すると、緊張があって不快感が出る。こういった一つの生体があらわしている、精神的には神経過敏、非常に攻撃的だったりするのですが、こういうトラブルメーカーみたいな人で、肝臓の辺りを押してみると不快感があって、そして、汗をかきやすい。上の方がのぼせて、足が冷えるというような患者さんが来ましたら、その人が西洋医学的にどんな病名に分類されようが、例えばその人が慢性肝炎を抱えていることもあれば、腎炎のこともあるし、あるいは、更年期障害みたいなこともあります。この柴胡桂枝湯をバシッと打ち当てると問題が解決できるということになっています。
 それと、これは要素還元主義的にアプローチしますと、個々の生薬の成分分析が全く無駄だとは私は言いません。こういう研究も推進していかなければいけない。取り出した単一化合物の薬効・薬理を教えられる。それらの複数の結果から柴胡桂枝湯にするのが、これまでの一般的な流れで、科学原理主義の流れでいくとこうなる。しかし、構造主義的なアプローチをしていくと、柴胡桂枝湯を一つの薬物単位と見なして、その薬効を心身両面を見据えた評価基準によって客観的な評価を試みるという視点ができてきます。統合医療の視点からすると、研究対象とする疾患・病症をもし評価しようとすれば、漫然と調査・研究の対象とはできませんので、ある程度の絞り込みをしておいて、しかし、それは単なる検査数値の動きとか、そういった客観データばかりではなく、QOLも視野に入れたような評価を行って、局面に応じて、当然のことながら、例えば血圧が高い人であれば、降圧剤を併用するかもしれない。そういったことも入れた一つの統合的なアプローチのトータルアウトカムを6か月なり3か月続けたときに、どれくらいのトータルアウトカムがあったか。よくなったか、悪くなったか。そういったことを評価していくのが一つの道筋ではないかと思いました。
 つまり、統合医療と漢方の役割は、要素還元主義に基づく医療体系、だれもが気づいている。だれもが気づいているけれども、その具体策がわからない。そこで、統合医療という言葉が登場しているのですが、欧米諸国と日本とでは異なった文化を持っていて、日本は漢方という構造主義的手法をする点で圧倒的に有利な医療環境にあります。保健・医療のシステムの中でこれを使っていける状況ですから、この漢方の持つ構造主義的視点を活用して、西洋医学の英知も取り込んで統合医療の方法論を構築していくことが我が国の統合医療。決してアメリカとそっくり、この差異はアメリカよりも明らかにアドバンテージを持っている。この点を誇りを持って推進していかなければいけないのではないかと思います。

これくらいの文章の中に、「構造主義」という言葉が実に十数回出てきます。寺澤氏は、これが統合医療、あるいは日本の漢方に通底する思想、という風に考えているのでしょう。そして、それと対置させるように、現代のスタンダードな医学を、「要素還元主義」「科学原理主義」であると痛烈に批判しています(「原理主義」というのは相当に強い表現)。このような意見は、統合医療を支持する代表的な論者には ある程度共通している、と見て良いのでしょう(後で渥美氏が、「寺澤先生の意見に全く賛成」と賛同を示している事からも窺える)。
今引用した部分は、統合医療を推進する人々の思想あるいは哲学を比較的具体的に説明したものと思います。で、主張をよく読むと、何の事は無い。既に科学や工学が考えているシステム的な見方です。何かそれ以上の優れた方法的特徴があるようには思えません(たとえば、ここを参照⇒システム・連関・ホリスティック・科学 - Interdisciplinary)。
もちろん、領域の専門分化が進み、各分野の連携が取りにくい、というような社会的な仕組みの部分がもしあれば、それは改善されてしかるべきでしょうし、自分の専門分野以外の勉強を全然しない、という態度は改められてしかるべきでしょうが、それは別に、科学一般の方法的・思想的不備を直ちに示すものとはならないでしょう。専門分化が進む事自体も、物事についての知識がより詳細になるにつれて、一つの分野における、押さえておかなくてはならない知識量も増えていき、より細かい部分ごとにそれを専門とするエキスパートが必要となる、というのは当然の話だろうと思います。
このように、現代の科学を科学原理主義(とか科学主義とか)や要素還元主義と批難し、それ以外の、たとえば東洋の伝統文化などの特徴として構造主義的なものや「ホリスティック」を挙げる、というのは、私にとってはある意味懐かしい感じではあります(参照⇒ホリスティック、一般化可能性 - Interdisciplinary)。議事録でも渥美氏が、

 次に統合医療の定義、これは先ほど述べましたが、これは実は非常に難しいようで、議論しますと、なかなか大変なことになると思います。わかりやすく考えれば、統合医療は患者中心の医療です。今までの医学は、どちらかといいますと身体を中心とした医学でしたが、社会や精神、霊性(魂)、そうしたいわゆる全人的医療といいますか、ホリスティック医学という方向に行くのではないかと思います。治療のみならず予防や健康が重要視されてくる。こんなところが統合医療の定義の中心ではなかろうかと思います。それから、50年前にこういう概念が出されましたが、生まれて死ぬまでの包括医療が必要になってくるのではないかと思います。

このように発言しています。まあ、これでは漠然としていてよく解りません。「霊性(魂)」という部分にはここでは触れません。「予防や健康が重要視されてくる」などというのは、身近に糖尿病の人間がいたり、歯科での歯周病予防や、昨今の医療の生活習慣病予防の取り組みなどを見ていたりすると、そりゃ現在の医療でも当然の視点ではないのか、などと思ったりしますけれど。

ところで、興味深いのが、

〇大島座長 今、再現性がなければサイエンスではない、科学ではないという言葉が出ました。それから、評価できるものとできないものの区別をして、きちんと分けていくというお話がありました。次には、現時点で認められている方法で評価できないものをどうするのかという話になってきます。先ほど構造主義というお話を寺澤先生がされましたけれども、私などは言葉では理解できるのですが、では、具体的にどうするのかという話になるとうまくイメージできません。今までやってきたサイエンスの手法ばかりが頭の中に浮かんできてしまう。従って、評価できるものを考えると従来の科学的な手法が頭に浮かび、そこで区別すると、今までの枠組みからどのぐらい拡大できるかと考えても相当限られたものになってきます。最初にいわゆる効果があるとか、あるいは自分でいいと思って選択するものはすべて「統合医療」の対象になるとどうなるのでしょうか。しゃべりながら、一体何を言いたいのかわからなくなってくるのですが、どの辺りに的を絞っていったらいいのかですね。

この大島座長(独立行政法人国立長寿医療研究センター総長)の発言。特に、「今までやってきたサイエンスの手法ばかりが頭の中に浮かんできてしまう。」の部分。何と言うか、とてもご尤もな疑問だと思います。つまり、

  • それ科学の方法と違うの?
  • じゃあどう評価するの?

みたいな疑問。で、これに対する渡辺構成員(慶応義塾大学医学部漢方医学センター診療部長)の応答がよく解りません。つまりこれは、この先にはオーダーメイド(あるいはテーラーメード)医療的な方向性に行くから、集団を見るRCTは馴染まない、という意味合いでしょうか。しかし、その主張はどれほを的を射ているでしょう。確かに、個別化した方法というのは重要だし、シングルケース的なアプローチも必要でしょうけれども、それは別に、集団を観察したり実験したりという方法と相反する、という訳では無いと思うのです。大体、反応に個人差があるというのは科学の大前提ではありませんか。だからこそ、誤差というものについて非常に気を使って検討が行われる。それに、この言い方だと、統合医療なるものは個人個人を考えるが、既存の医療はそうでは無い、と言っているようにも思えます。しかしながら、実際に医療機関にかかった経験を思い起こしてみるならば、実に細かく個別に対応されているではないか、と考えるのですが、いかがでしょうか(参照⇒オーダーメイド - Interdisciplinary)。

こうして見てみると、やはり、統合医療の評価にはRCTは向かない、という詳細な理由や、思想的・哲学的な基盤たる所の「構造主義」「ホリスティック」というものが、既存の科学に比していかなるアドバンテージを持っているのか、判然としないのです。いや、どういう事を考えているか自体は解る、けれど、それ科学がもうやってるじゃない、て思う、と言った方がいいでしょうか。それを殊更に「統合医療」という立場の特徴として主張し、そして対立するものとして(一応、「統合」は謳ってはいますが)科学を置く、というやり方にはあまり納得がいかないのですが、皆さんはいかがでしょうか。