「一見してネタって判るだろう」――文脈把握の押し付け

パッと見てデタラメと判るだろう、ネタというのは一目瞭然だろう、ってのは一般に、「文脈を共有している人達の言い分」と捉えておくべきでしょう。特に、不特定多数の人から見られる可能性が大きい(たとえば友人や家族との会話、とは時間的空間的条件が全然違う)WEB上での情報発信においては。

通じなかった時に、「通じなかった側」を責めるのは、とても押し付けがましい場合がありますよね。確かに、一旦落ち着いて情報を精査する、というのを怠る態度は批判されて良いのだろうけれど、それはそれとして、騙されたりのせられたりした人を、見下す、馬鹿にする、というのは控えたいところです。いつ自分が引っかかるか解らんですよ。引っかからない自信がある、的な人には何も言わないけれど。

冗談というのは、それに関わる双方(言う人、言われる人やもの――ネタにされる人やもの)が了解しているから成り立つのであって。ネタって判れよ、というのは、なんか「空気読めよ」に近い感じもある。
あなたにとっての「明らか」が、他の人にとっても「明らか」であるとも限らないのだし。
ネタに社会風刺的なものも含めている時には、「ギリギリ」を狙う事がありますよね。いかにも「実際にありそう」というのと、「そりゃ無いだろ」というのをどう絶妙にブレンドするか、と志向する。そうなると、文脈を共有しない人にとっては益々むつかしくなる。実在の人物や商品を利用した場合なんか特にね。

これは、虚構新聞の話を見て思った事です。

私らは、「どう見ても荒唐無稽だけど信じる人が沢山いる」ようなものの事をずうっと考えてきた訳です。何でそれがデタラメだって解らないんだろう、みたいなものについて真面目に検討してきた。そして、ちょっとした心構えとか、ほんの少しの知識の差が ものの見方を左右する、という事も色々と見てきた。

それを忘れないようにしたいものです。
反省と自戒も含めつつ。