ショットガン

3DS LLが発表されました。

ところで、発表に対する反応の中に、先日の日経の報道に関連して「出さないって言ってなかったっけ?」みたいなものがありましたが(twitterのリアルタイム検索あたりを見ると結構ある)、その件で任天堂が、LLは出さない、と明言していましたか? 私が知る限りでは、そういうのは無かったと思うのですが。

前に任天堂は、日経を痛烈に批判するリリースを出しましたが(ニュースリリース : 2012年6月5日−本日の日本経済新聞の報道について)、そこでは、

当社が発表あるいは事実確認したものではなく、数多くの間違いが含まれた、日本経済新聞社の全くの憶測記事です。

このような表現でした。「数多くの間違いが含まれた」となっていますね。
これが出た時に、どこが間違いか判らないから説明するべきでは、という意見がありましたが、私はそれはどうかな、と思います。と言うのは、いくつかの重要な情報があって、それについて一つ一つ、これは違う、これは本当、と説明するのは結局、他者の理不尽な行動によって発表を余儀なくされてしまう事になるからです。ゲームハードを出すタイミングというのはとても重要な情報ですし、マーケティング等の観点からも、そんな事はやりようが無いでしょう。憶測によって書かれた中に本当の事が混じっていたからといって、それについて丸ごと説明しなければならない、というのは理不尽と言えます。
ゲーム関連で重要である、「いかにもなりそうな」もの、というのはそれほど膨大にある訳ではありませんよね。新しいハードが出る(新規かバージョン違いか)、有力なタイトルの最新作が出る、ハードやソフトの発売日が決定する、等々に大まかに分類出来るでしょうか。ですから、それらをいくつか組み合わせれば、一見尤もらしいものは出来る。で、実際、発表していない事についていくつも書いているのだから、書かれた任天堂としては、それは憶測である、とするしか無いでしょう。たとえ、結果的に本当の事が含まれたとしても、です。後から一つ二つ、「本当だったではないか」と言われても困るでしょう。たくさんの予想をすれば、いくつかは当たるかも知れない。よほど突飛なもので無ければ。
たとえば、情報 a, b, c, d, e の5つの情報が含まれていて、それが誤報だと痛烈に批判され、そして後日、その中の一つが当たっていたと判明したとして、誤報じゃ無いではないか、とするのは無理があると思います。もちろん、情報 b は間違っている、という批判があって、その後に実は情報 b が正しかったと判明した場合には、その部分については、「間違いでは無いだろう」という反論は成り立ちます。
科学や医学の話でもそういうものがあります。○○は効く、△△という現象が確認された、みたいな発表や主張があって、それは確たる証拠によって支持されたのか、という批判が出る。で、仮にその後に、「実際そうだった」事が判明したとして、「本当だったではないか」と言うのは結果論であって、重要なのは、主張した時点での証拠です。
商品の新情報の場合には、漏洩(ルートはリークなど色々)などの可能性もあり、証拠は強いが情報源を秘匿するために詳しく明かさない、という事もあるでしょうから、そこは難しい所もあるかも知れませんが、いずれにしても、企業側としてはたまったものではないでしょう。

これが、記事に含まれる情報が一つだけなら情況が異なっていたと思います。日経が、「大画面の3DSが出る」とだけ書く、つまり狙い撃ちしていたとしたら、任天堂は困ったかも知れません。「憶測」とは言えても(憶測というのは証拠が不充分である事を指摘する表現であって、誤りかどうかは必ずしも関係しない)、「間違い」とは言えなかった訳ですから。

という事で、今回の発表を受けての、「日経の報道を批判して、出ないと言ったのにやっぱり出すのか」という批判は、「任天堂が、大画面の3DSを出さない」とピンポイントで主張していた場合には成り立つけれども、それが無ければ、的を射たものとは言えないかも知れません。言い方を換えると、そのような根拠でもって「やっぱり正しかった」と評価されるのでは、ある意味で言ったもの勝ちになってしまう虞がある、と考えるのです。

もう少し書くと、任天堂の「全くの憶測」という表現をどう取るか、というのもあるでしょうね。これを、書かれた情報全体が誤っている、と取った人もいるかも知れません。私などは、先にも書いたように、「憶測」という表現に、「事実かどうか」は関係無いと思っているので(「当て推量」と同義)、まあ、「情報に真実が含まれているとしても」そう言うしかないだろう、と読みました。「書かれてある事が全部間違っている」と書かれてはいなかったので。