2つ

科学から見た反原発の問題点 菊池 誠「“御用”のレッテルで科学を殺すな」

このタイトルで少々気になるかな、と思ったのは2つ(本文には特に問題は無い、と言うより、とても丁寧な内容であると思う――揚げ足取りのような読解や、リソースの分量を完全に無視した要求(あらゆる論点について詳細な説明を求める等)をしなければ)。

  1. 反原発」という表現によって、色々な考えの者が一括りにされるように見える、つまりバリエーションが無視される(ように見える)事。
  2. 科学を「殺す」というインパクトの強い表現が含められている所。

一番目
反原発」というのは、文字通りには ある立場をとる事(ここでは、原発に反対するという立場)を指す大まかな表現に過ぎないから、その条件によって結び付けられる集合に属する一部の人の態度をもって、「反原発」は云々、と一般化したように言うのは危ういものがある*1
二番目
比喩的に「○○を“殺すな”」というのはしばしば、ある文化なりが不当に攻撃されている事への批判や抗議の意味で用いられる事があるが、これは、「話が通ずる」人には共感を得られるかも知れないが、そうで無い人にとっては、とても大袈裟に映ったり、いわゆる「引く」ような印象を与える場合がある。例:「レバ刺し禁止によって生食文化を殺すな」 ※念のために書いておくと、これは「表現」の問題だから、「批判や抗議が妥当であるか」は一応別の文脈である*2

要するに、「○○を殺すな」と言われた時に、「○○がなんぼのものだ」と認識している人にはおそらく届かないであろう、という事である。ある立場が共通しているからといって、思考や態度までをも一緒くたにするような表現は控えるのが適当だろう、という事である。
本記事の内容あるいは性質からして、これはそもそも、科学に馴染みの無い人などにも何とかして解ってもらいたいものなのだと思うから、論理的・理論的な妥当さと「共に」、その他の一つ一つの細かい表現にも気をつけておくのが肝腎ではないかと思う。

*1:原発反対である人々の内、問題ある態度をとっている者達を限定的に「反原発」と表現する、という主張には私は賛同しない。

*2:私自身としては、ある対象に御用(あるいはエア御用)なる属性を付加して、理論的・合理的・論理的・科学的な議論を封じようとしたのだ、と考えている。それを比喩的に「殺す」と表現するのは可能であるけれども、その強い表現が共感を得られるかは別の話だ、とここでは言いたいのである。