何故モンスターを殺してもいいのか

何故モンスターは殺してもいいの?

人々を襲う魔物だとかいう描写も無いまま、

描写は無いんですか? もしかすると、「描写」というのをグラフィカルな表現限定で使っているんですか?
そうで無いとして、世界設定的に、モンスターに滅ぼされた街とか、魔獣が人々に害をなしているとか、そういうのってありませんか?(メルキドアッテムトの惨状は、モンスターの存在と切り離せないのでは) もちろん、その辺の設定が特に明示されておらず、モンスターは倒すべきもの、と前提されている事はあるかも知れません。

教育上問題じゃないの?。

「何が」「どう」教育上問題になり得ると考えているのですか? それをちゃんと書かないとよく解らないと思います。一体、そのようなゲームがどう与えられる場面を想定しているのでしょう。

殺生推奨の国なんですか?日本って。

何故コンピュータゲームの表現から、「殺生推奨」という話に飛ぶのですか? それと、どうして「日本」になるのでしょう。魔物を殺すゲームというのはそもそも日本に限らないのでは。
ところで、この増田氏の場合、動物を食べて生活する習慣を持つのは「殺生推奨」であると表現されるのかな。その「殺生推奨」という概念がそもそも明らかで無い、と言うか。
コンピュータゲームでモンスターを殺す、と言うけれど、そのモンスターは「記号」でしょう。それは、経験値や金、アイテムなどを得るためのシンボルとしてゲーム内で表現されているものです。ゲーム内で表現される所の「殺す」は、現実の私達が知っている「殺す」と一致する訳では無い。
増田氏は恐らく、ゲームの表現からいきなり「動物は殺して良い」みたいな価値観が形成される、つまり記号を意図したものが記号に留まらないのを想定しているのでしょうが(だから「教育上問題じゃないの?」という問いが出る)、社会的な、「ゲーム内のキャラクタが記号であるという認識の共有の度合い」を考えないで定性的な話をしたって先には進まないでしょう。
ゲームをやる人は、「それ以外に関わらない」という訳では無いでしょう。世界観や価値観や死生観というのは様々なもの(それらしく言えば、要因や変数)との交わりによって形成されるものだし。実際に、ゲームのせいで好ましく無い(これも社会的な文脈が関連するでしょう)認知が形成された、という事があるのですか? あるとしてそれは定量的なものですか(社会心理学のデータでも持っていますか)。
実際、フィクションの設定が認知に影響を与える、というのを否定する理由は特にありません。けれど、いきなり大雑把に可能性を指摘する、というだけではあまり意味が無いと思います。
「何故モンスターを殺してもいいのか」というのを考えると、「そういう世界(設定)だから」となるでしょう。典型的な中世的RPGなんかで考えると、魔王がいて、王様がいて、街の人々は魔物に怯え、才能を持った勇者が現れる世界。あるいは「ゲームだから」。つまり、ゲーム内の記号、シンボルだというのが解っているから。だから、FPSなどで「人を殺せる」。この辺、ゲームをよくやる人とそうで無い人にズレが出る場合があります。モンスターハンターでアプトノス(そこら辺をうろうろしている大人しい草食動物)を狩るのを見て顔をしかめる、とかね。また、ゲームをよくする人でも、FPSやTPSをやり初めの時に、すごく抵抗を覚えたりします。私なんかもそうでしたけれども。で、それは「慣れる」のですね。けれどその「慣れ」は、「人やモンスターを殺す事に慣れる」のでは無くて、「それが記号だと割り切る」という意味です。
で、先にも書いたように、そういう慣れ方をしないで、即現実と絡めてしまうという事があるのか、あるとすればどの程度か、というのはきちんと根拠を見出しつつ考えるべき事のはずです。
今後、ゲームのグラフィカルな表現が益々フォトリアルになってきたら人間の認知に与える影響が変わってくるのではないか、といったような問いはあるでしょうし、重要なものだと思います。でも、それはそれとしてきちんと慎重に考えるべき事であって、自分の持つ認識の枠組みでもって適当に理論的な考察を行なって飛躍を重ねてもしょうが無いです。