記事『プリキュアの報道は妥当 - 生島 勘富』について

プリキュアの報道は妥当 - 生島 勘富 (アゴラ) - Yahoo!ニュースという記事についてです。アゴラ版はこちら⇒プリキュアの報道は妥当 : アゴラ - ライブドアブログ
先日、日刊スポーツが、小6女児監禁男はプリキュア好き - 社会ニュース : nikkansports.comというタイトルの記事を出しました。この記事は、先日起こった女児監禁事件に絡めて、その事件の容疑者がアニメ作品のプリキュアを好きであったらしいという、同じ大学の学生の証言を本文で紹介し、タイトルに「プリキュア好き」と入れた、という内容です。
そして、この記事の発信を受けて、強い批判が巻き起こりました。そしてその流れで、今回アゴラの記事を書いた生島氏が独自の主張を展開し、それがきっかけで激しい論争を呼び起こします(生島 勘富 さんの「アニメが好きなことは、幼女に性犯罪を犯す必要条件になっている」について - Togetter)。
アゴラに書かれた生島氏の記事は、このような経緯を受けて執筆されたものと思われます。内容も、上記togetterまとめで展開されている論の要約のようになっています。
ここまで紹介した生島氏のつぶやきや記事を見ると、かなり独特で、首を傾げざるを得ない所も多々あります。そこで、本エントリーでは、生島氏のアゴラ記事を検討してみたいと思います。
※以下、引用元を明示しない引用文はアゴラ記事より。他は、その都度引用元を示す。

「犯人はプリキュア好き」という報道から、「アニメと幼女に対する性犯罪」についての考え方を整理すると

  1.相関がない
    「アニメと幼女に対する性犯罪」は何の関係もない。
  2.相関があって因果関係はない
    幼女に犯罪を犯すような人はアニメを好む傾向が強い。
  3.正の因果関係がある
    アニメを観ることによって幼女に犯罪を犯すようになる。
  4.負の因果関係がある
    アニメで幼女に対する劣情を昇華できる。
  5.とにかくむかつく
    (分からなくはないですが……)

まず、このように、「アニメと幼女に対する性犯罪」との関係性を分類しています。ここが生島氏の論の土台のようなものだと思います。
ここでいきなり「アニメ」となっていますね。生島氏の主張によれば、ある種のアニメという限定されたものを対象としているはずです。表現を省略したという事かも知れませんが、そうであるとしても、些か雑であると思います。
また、本事件は、これまで知られている限り、監禁事件であって性犯罪では無いです。容疑者が語っているのは、女児にいたずらしようという考えが頭をよぎった広島・小6監禁:「いたずら、頭よぎった」容疑者供述− 毎日jp(毎日新聞))という事であって、性犯罪が行われた訳ではありません。生島氏の記述は、あたかも当該事件の容疑者が性犯罪を行ったかのようにも見えて、不正確でしょう。
これは細かい部分ですが、生島氏は、「相関関係」と、「正の因果関係」「負の因果関係」という表現を用いています。私はあまり、「因果関係」に正負をつける表現は見た事がありません(相関関係につける)。もちろんこれは、私が馴染み無いだけ、なのかも知れませんが。

マスコミや憤りの声を上げている人が非常に多くいますが、いったい、どのような立場で憤りの声を上げているのか分かりません。(つまり、5じゃないかと考えます)

「マスコミや」は文脈から考えて、「マスコミに」の事でしょうから、そう解釈して進めます。この文章は、「つまり」の繋げかたがおかしいように思います。思いつかない、解らないからといって、「とにかくむかつく」という、かなり具体的で限定的な感情と動機を仮定するのは早計でしょう。そもそも、生島氏が挙げている1-4は、ある現象間の関係を分類したものであって、日刊スポーツの記事に憤りの声を上げるというのは、記事の書き方や流れを批判するものですから、違う話のはずです。

「犯人はプリキュア好き」と報道するマスコミや、私を含むそれを見る人はこのように考えます。

幼女に対する犯罪を犯す人は、幼女に興味があるわけだから、幼女に関連するアニメやゲームにも興味があるだろう。という仮説を持っています。

ひとまずこの部分は、検討を進めるために、そういう見方はあるだろう、と前提します。
ここで生島氏が主張しているのは、年少の女性に対する犯罪を行う人は、少女が出てくるアニメやゲームにも興味があるだろうから、そのような犯罪を行う事と、少女が出てくるアニメやゲームを好む事とに関連があるのではないか、という想像だと思われます。※私は、「相関」を適宜「関連」に言い換えます。同じような意味であると読んでもらっても差し支えは無いです
この部分に関する指摘としては(ここから、生島氏の文に合わせて、「幼女」と表現します)、

  • 幼女に対する犯罪は性犯罪とは限らない
  • 幼女に「関連する」ものといっても、色々な種類がある
  • 幼女を扱うのは、アニメやゲームに限らない(メディアは、電子メディア含め、沢山ある)

こういった所でしょうか。「仮説」と言うには少々練り方が足りないように思えます。

例えば、アニメに興味がある人と、幼女に対する犯罪を犯した人の人数が以下の様になると仮定すると


アニメに興味あり
一般10,000,000人
犯罪を犯した人400人
100万人あたり40人

アニメに興味なし
一般40,000,000人
犯罪を犯した人 100人
100万人あたり 2.5人

このままだと把握しにくいので、表にします。ちなみに、こういった表を統計科学では、「分割表」「クロス集計表」等と言います。
※ここでも、生島氏の表現に従って、単に省略して「アニメ」とし、他の表現も合わせる。そもそも、生島氏がどのような範囲を言葉の意味に含ませているかが定かでは無い。

アニメに興味あり アニメに興味なし
犯罪を犯した人 400 100
一般 10,000,000 40,000,000

ここで生島氏が出している数値は、完全に仮定です。どこにもこの数値の出所や、こういう数値を採用する理由がありません。従って、ここから展開される推測に意味はありません。

「悪意を持って結びつけよう」と思っているのではなく、仮説にも説得力があり「結びつかないと考える方が無理がある」と思っています。

「仮説にも説得力があり」というのは無理があります。仮説が説得力を持つのは、それまでに得られた様々な知見に照らしあわせ、その理論的考察が尤もらしいと評価出来る、という時であって、それが無くては単なる思いつき以上の評価は得られないでしょう。そして、その理論的考察が適切であるかを確かめるのが調査研究で、観察によって得られたデータを統計的に処理して関連を見出していく流れです(対象によって、調査・観察・実験 等の方法が用いられる)。
また、生島氏は暗に、別の所での因果関係を想定しているようにも思われます。つまり、
幼女に興味を持つ → 幼女対象の犯罪を犯す
   ↓
幼女関連のアニメを好む
この二本の矢印で示した因果関係を設定し、その結果、生島氏が採り上げている二つの要因に関連が現れる、と考えているのでしょう。そもそも、この二本の矢印を無条件に仮定して良いものでしょうか。
尤も生島氏は、自身の主張は仮説で、印象に過ぎない、とも言っています。そして、だからといって印象や仮説を語ってはならない訳では無い、と強調します。氏の主張の核はここなのでしょう。関連はあると思っている。しかしそれは単なる仮定である。でも仮定を書いてはならない理由は無い。とこういう論。

もし、「報道が気に入らない」と考えるのであれば「ほぼ1倍である(相関はない)」とデータを示すか、「ほぼ1倍である」という仮説を立てて、相手の仮説を崩すしかありません。
存在しないことは悪魔の証明ですが「相関がないこと」を証明するのは悪魔の証明ではないのです。

これはかなり無理のある意見です。よく考えてみると、ここで要求された「データを示す」というのは、これまでに年少の女性に対する性犯罪を行った者について、「特定のアニメが好きであったどうか」の情報が無くてはいけないのを意味するからです。そのような情報はどこにあるのでしょう。このような主張を通すと、いくらでも勝手に趣味嗜好等に関する要因を挙げて、「関連が無いと言いたいならデータを示せ」と言えてしまいます。たとえば、A という料理が好きな事と犯罪とに関連があるのではないか、と適当に言う事も出来てしまいます。
生島氏は、存在しない事を示すのは悪魔の証明であり(記事中の文は意味不明ですが、文脈からはこう解釈出来ます)、関連が無いのを示すのはそうでは無い、と言いますが、上で見てきたような事を踏まえると、事実上、立証がほとんど不可能に近い事を要求していると看做せます。先ほど描いた表のそれぞれのセルに入る実際の数値はどうやって埋めますか? コストも膨大にかかります。
有用な情報は、どこからか降ってきたり沸いて出たりするものではないのです。偏り等が出ないように適切なデザインが組まれ、コストをかけて調査が行われて初めて、使い物になるデータが得られるのですから。
こういう事情があるので、一般には、実証と反証は非対称だと言われます。何か仮説なり理論なりを主張したいのならば、それを示す側がデータを示して実証しないと「相手にされない」という慣習(科学の制度として確立された)です。
ここで改めて、日刊スポーツの記事に憤った人の「理由」を考えてみます。それは、

理由
犯行に至るプロセスには無数の要因が絡み合っているにも拘わらず、同学年の学生の証言で語られたに過ぎないいくつかの趣味嗜好を敢えて採り上げ、更にその内一つを選んでタイトルに入れる事。及び、それをタイトルに入れる事によって、当該対象(つまりプリキュアというアニメ)を知らない人、あるいは、知っているが「大人が観るようなものでは無い」と考える人に対し、「因果関係を仄めかす」ように読まれる事を危惧したから。

というように要約出来るでしょう。つまりこれは、記事タイトルで強調されるという「表現の仕方」が、因果関係を匂わすように見える、という意味です。そして、どうして憤るかと言うと、こういうやり方は、「はっきり書かずに読み手の印象を強化出来る」からです。
つまり、記事では確かに、プリキュアが好き「だから」犯行に至ったのではないか、という因果関係に関する推測は書かれていません。しかし、これまでに、アニメやゲームの悪影響というのは、色々な所で取り沙汰されています。ですから、それによって形成された、「因果関係があるのでは」という先入観を強化してしまう事を懸念するのです。
そして、生島氏のように、記事には因果関係の事は明示されていないと言って、仮説や印象なら構わない、という意見が出ています。はっきり言います。因果関係は言っていないじゃないか、という主張は否定出来ません。それはそうなのです。と言うか、元の記事が、「そうとしか言えないような書かれ方をしている」のです。
私も含め、日刊スポーツの記事に批判的な人々のある程度は、「相関関係があるからといって因果関係にあるとは限らない」という、統計の本でよく出てくる話を念頭に置いているでしょう。ここにヒントがあります。つまり、このような注意が書かれているという事は、「相関関係があると解ったらそこに因果関係を想定しがち」であるのを考慮している訳です。
そのような事情を踏まえているから、タイトルに特定の趣味嗜好を入れるという「手法」を危惧している、と言えます。実際、あの記事に対しては、「アニメが原因のように言うな」と批判するのは簡単では無いです。知ってか知らずか、記者および見出しをつけた人間は、そのような指摘を回避しようとしている。批判する人々は、そこに狡猾さを読み取っているのでしょう。
確かに、「書かれていない事を読む」のは、時に書き手の意図を無視した拡大解釈を引き起こす危険性があります。だから、文書の解釈は難しいものではあるのです。それを念頭に置きつつ考察していくのが肝要です。
この後の部分は、話題が変わる上に、ほとんど何が言いたいのか解らないような込み入った文章であるので、検討は他の方に任せます。特に、差別問題にも関わるものなので、また別の議論が絡んできそうです。
以上、ひとまずは、相関(関連)と因果の話、報道の仕方の話、の所を考察してみました。