反例

血液型性格判断を題材に。
血液型性格判断への反論として、ある著名人なり、身近の人なりの例を出して、この人がこういう性格(血液型性格判断で主張されるようなものとは違う)であるから血液型性格判断なんて嘘っぱちだ、と主張する*1ようなものがある。
けれど、「一例」をもって反証となり得るのは、元々の説が、「全ての○○は××だ」というかたちのものである時であって、そもそも血液型性格判断というのは、「○○の人の“多くは”××だ」という、いわゆる統計的な事についての説であるから、○○なのに××で無い数例が見出されたとしても、それだけでは、元の主張を覆せた事にはならない。
血液型性格判断論の肝は、少数分類の性格とABO式血液型とに「強い関連がある」事を主張している、という所。これは上で書いたように、○○の人は全員××だ、といった主張では無くて、A型の人は××な性格が多く、B型には□□な人が多く……というかたち。だから、「全体として」どのような傾向にあるか、という事を言っている。それが成り立っていれば、血液型を知らない人の言動を見て、この人はこの血液型だろう、と推測した時に、「高い可能性」でもって当たる、という構造。従って、初めから、「外れる事もある」のが織り込んである主張だと言える。当てはまらない人の例を出した所で、そりゃ全員そうだと言う訳では無いさ、と返される。
もちろん、一例を出して云々するものが必ずしも、本気でそれが反証となっている、と考えている訳では無いだろうけれど、本当に丁寧に説を検討しようとするならば、ここで見たような所を意識しておくのは肝要であると思う。
こう考えてくると、血液型性格判断というものに反論したいなら、対象とする全体を考察したものを証拠として持ってこなくてはならない事が解る。証拠として大まかに、2つに分けられる。

  1. 全体について考察して傾向が見出された、という証拠が無いではないか
  2. 全体について考察して、強い関連が無いという証拠があるではないか

1は、説を支持する証拠がまだ見出されていない、という「証拠」。2は、関連が強く無いという証拠があるではないか、という「証拠」。これは種類が異なる。両方とも、「血液型性格判断が成り立っているとは言えない」事を示す証拠であるけれども、1しか言えなければ、「血液型性格判断が“成り立っていない証拠”」とは言えない。療法の話で言うと、「効く証拠が無い」「効かない証拠がある」の双方とも、それが効くとは言えないという証拠ではあるけれども、「効く証拠が無い」からといって、「効かない」とはすぐ言えない。代替療法の議論等でも、この辺の論理を巧妙についてくるものがあるので、注意する事。

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1については、「どこに」の観点が重要。論理的には、「どこかにある」可能性を排除出来ないから、水準を満たしたものが集まる場所、というのが設定される必要がある。それが、学術論文を発表する場等。基本、そこに無いんだったら話にならないよ、という体制になる。
だから、1を証拠として示す時には、著名な所には質の高い論文は無いではないか、という言い方になるし、それ以外のどこかにあると言うのなら、ちゃんとあなたが、ある所を示しましょう、という話にもなる。
そういう事を考えると、証拠としてより強力なのは、やはり2であると言える。
もちろん、2として提出された証拠が間違っているのではないか、という論理的な可能性も排除出来ないから、アド・ホックな反論は幾らでも出来る。その辺には科学哲学的な議論が関わってくるだろう。例:ホメオパシー(レメディ)が効かないと結論づけた研究が全て間違っているのではないか、という反論は、論理的には否定出来ない。

*1:主張の強度は様々