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「強くなるかどうか」を強調する事

桑田真澄さん“体罰では強くならない” NHKニュース
要約したテキストの中には、

体罰は指導者の勉強不足による、いちばん安易な指導方法で、チームや選手は本当の意味では決して強くならない」

とあります(強調は私)。動画を観ると、桑田氏のインタビューは編集されていて、全体的にどのように表現されていたかは解りません。そして記事タイトルは、「桑田真澄さん“体罰では強くならない”」となっています。「体罰では強くならない」の部分が引用符で括られ強調されています(コメントの中でそこを抽出してタイトルに入れているので、実質的な強調)。その部分を強調しているという事は、そこを重視していると推察出来ます。
けれど、体罰の是非というのは、強くなるかどうか、で語るようなものでは無いと思う訳ですね。強い、と一言で言っても色々な意味を含み得るので、それもむつかしいですが(だから、桑田氏が「本当の意味では」という言葉を実際に付け加えたとすれば、そこに、試合に勝つ以上の含意を持たせている可能性があります)、狭くとって、試合に勝つ能力(が高い、を高くする)と捉えると、それについて合目的的であるかどうか(目的に適っているかどうか)で体罰の是非を考えている事になりますが、そうすると、もしも「体罰で強くなる」事が示されたとすればどう評価すべきか、というようにも考える事が出来ます。*1
仮に、強さというのを上で見たように狭い概念で捉えた上で、私の考えを書くと、「体罰で強くなろうが、体罰を行うべきでは無い」となるでしょう。

WEB上のニュースサイト等でこの記事へのリンクを見た時、「そこを強調して体罰の是非を語るのは妥当なのだろうか」と考えました。もしかすると、桑田氏も、そこにクローズアップされるのは不本意なのかも知れない、などと思っています。

*1:その辺りの実際こそ桑田氏が興味を持っており、研究をした所なのでしょうけれど、ここでは一応実際を措いて、仮定の話をします