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無と無限の二重拘束

※死とか無とか、そういう所に向き合うのが嫌いだったり苦手だったりする人は読まないで下さい。
死ぬのが恐いということ
こういうエントリーを読んだので、前のブログの記事から再録。
無と無限: Interdisciplinary

誰しも、「死んだらどうなるか」と、考えた事があると思います。それを突き詰めていくと、「ああ、これ以上考えると、気が狂うだろうな…。」という所へ到達します。曖昧な書き方ですが、解る人には解る(当たり前)と思います。その事を考えている時は、独特の身体意識が感じられます。それは、筆舌に尽くし難いものです。

もう一つ、私が思索したのは、「永遠の命を手に入れたらどうなるか」という事です。こちらも同じく、考えれば考える程、絶望します。

言葉で説明するのは、なかなか難しいですが。それは、哲学者や文学者の仕事でしょうね。

無にしろ無限にしろ、思索を進めると、行き着く先は、どちらも絶望です。絶望の二重拘束といった所でしょうか。絶望を回避するには、宗教的概念にすがるしか無いのかも知れませんが、私は無神論者です。

まあ、どうする事も出来ませんから、考えたって、しょうが無いですね(笑)

死の恐怖(増田で書かれているような)とは、実感を契機として認識するものというよりは、理詰めで到達するものと思います。ある種の信念を前提として、そこから論理的に組み立てていった先の、どうする事も出来ない絶望。その信念というのは、

  • 神などの超越的な存在、概念の排除
  • 世界は合理的な秩序に従う、という世界観
  • 思考・記憶、といったものが自我を形成するという見方

等といったもの。そこから、死→無 と導かれる。そこにあるのはただただ何も無い状態。いや、無いとか状態とか、そういう概念や観念を用いて表現しようとする事自体が、もう相容れ無い訳で。永遠に眠るようなものだろう、という意見もあるけれど、眠るというのは起きているという状態とセットで成り立つものなのであって。そういう表現そのものと断絶している。
だから、人生の目的が、とか、今生きている苦しみとの比較とか、そういう事の悉くについて、それとは違うんだよ、となるのですね。そういうんじゃ無い。
一方、無限です。
再録した記事でも書きましたが、私は以前、無限の命を得たら、と思索した事があります。そうすると、記憶や経験がどんどん溜まっていく事になる。で、終わりの無い長さが先に待っている。どうなる? と。まあ、経験や記憶の一部を消し去る事が出来たら、みたいなのも考えたりしましたけれども。
そんな思索をしていくと、無と無限に挟み打ちにされるように感ずるのですね。絶望と絶望とに押し潰されそうになる。超越者の仮定なんかをすればその絶望から一時的には逃れる事が出来るのかも知れませんけれど、あいにく、そのような概念や観念自体を初めに棄てているから、もうそこには戻れない訳です。
私は、いつか自分は発狂するだろうな、と思っていたりします。20代くらいに考えて、まあ、死が近づくとそうなるかなあ、となった。
思考なり意識なり記憶なりに生の意義を見出している人にとっては、もし病気や怪我等で、ものの解らない状態になったらどうするか、というのは結構考える所でしょう。それは無と同じか? いや、考える事は出来なくても、感ずる事は出来るかも知れない。それはそれで意識はある事になる。と言えるのかどうか。
そんな色々な事を考えて、それでも答えは出ず、まあいいか、となって、また朝が来ますように、と願いつつ、眠りにつくのでありました。