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yunishio氏の「証明」と「反証」

yunishio氏が、こんな事を言っていました。
※強調は引用者による

@FAtype100R うーん。白黒をつける行為こそが「反証」じゃないかと思いますよ。白黒のついてないものは「反証」と呼んではいけないと思います。きっちり証明できるまで「白いカラスは存在しない」と言いきってはいけない、ということです。それは悪魔の証明だから。
http://twitter.com/yunishio/status/375580632329371648

yunishio氏は、反証という言葉に、このような強い意味を込めているらしい。つまり、数学や論理で言うような意味での使い方をしていて、そうで無いものを反証と呼ぶべきでは無いと。
数学等の方面で厳密に使われている言葉なのだから、それを無闇に意味を広げて用いてはならない、という主張であれば、それ自体は特におかしな事ではありません。術語と日常語が重なっていたら紛らわしいので言葉の使い方に気をつけよう、みたいな話は、結構ありますし。
私自身の立場としては、別に構わないというものです。実際の現象についての確認という文脈において、数学的厳密な意味での証明や反証が出来ない、というのは、説明すればすぐに解る事です。その事そのものは、そんなに複雑な話ではありません。ですので、補足なりをしつつ言葉の意味について了解をとっていけば良い話です。
上の引用文、あるいはNATROMさんに対する指摘などから、yunishio氏は、証明や反証という言葉を厳密に使うべきだと考えている事が明らかです。他にも発言を拾ってみましょう。

オレには専門的な論文が読めないですし、そもそも個別事例ではなく、すべての環境臨床医がそうである、との証明をしていただきたいと思います。@NATROM
http://twitter.com/yunishio/status/361147980151128067

これはNATROMさんに対する指摘です。全てのという事を要求しています。そうで無ければ証明なる表現が使えない、と言っているのでしょう。
しかしですよ。実際の現象において、全てのという事が示されるのは、なかなか無い話です。もちろん、言及する対象を狭めれば、不可能ではありません。たとえば、ある時点において、TAKESANの財布に入っている硬貨は全て100円玉であるかどうか、というのは、実際に財布を見れば判ります(財布の中身を完全に観察出来たという前提が要りますが)。
しかし、ある組織に属する人が全てそのような認識であるか、主張を持っているか、みたいなのは、そこまで極端な事(「全てが」どうこう)を問うべきなのか、と疑問が出る訳です。社会的に、何らかの組織に属する人が全て同様の認識を持つ、という事が現実に起こり得るのかどうか。それこそ、ある部分に関しての認識を問い、それを組織へ入る資格とする、みたいな事でも無いと起こりそうにありません。いや、もしそういう事があったとしても、組織の規模等によっても話は変わってきますね。人間の認識は変化していくものだし、人数が多ければ益々、全員が同じ考えであり続ける、のは可能性が低いでしょう。
色々の条件が絡み合って成り立っている現象について、全ての、と問うからには、それくらい強い問い方をしなくてはならない事を合理的に説明出来なければ、説得力は持たないように思われます。
それからもちろん、対象に属するものが無限である場合、全てのものがどうである、という事を確かめるのは不可能です。ですからたとえば、ある病気に対して薬が効くかどうか、を考える場合などには、この薬は全ての患者に効くのか、というのは、そもそもナンセンスな問いであると言えます。
当然、対象を狭めて、ある病院に入院している患者 n 名について効くかどうか、を考えれば、文字通りに全ての要素についてものを言う事は出来ますけれど(効くが定義されていなければならないのは言うまでも無い)、その場合には、その狭い対象全体についての結論がどのような意味や意義を持つのか、と問われる事となるでしょう。
さてここで、yunishio氏自身による証明反証の用い方を見てみましょう。

@gingerale500ml なるほど、たしかに時代小説家は食通が多いような印象があります。だれかが書いてましたが、司馬遼太郎さんだけが例外で、取材先でもカレーライスしか食べないんだそうでw そういったエピソードが伝えられていること自体、食通が多かったことを証明してますね。
http://twitter.com/yunishio/status/277628700751712256

おや。
食通が多かったことを証明だそうです。しかし、yunishio氏によれば、

白黒のついてないものは「反証」と呼んではいけないと思います。きっちり証明できるまで「白いカラスは存在しない」と言いきってはいけない、

という事だったはずです。当然、反証証明は密接な関係にある言葉です。
これを踏まえれば、食通が多かったことを証明なる表現は、yunishio氏の用法からすれば、全く辻褄の合わないものではありませんか。氏の用法だと、時代小説家の全てが食通であったので無ければ、証明等という表現は出来ないのではないでしょうか。
多かったとあるから、それは量的な言明である、とおっしゃいますか? でもそれは、次のような理由から、通用しないと思われます。

  • そもそも反証や証明を全ての白黒という事と絡めて論じているのだから、それらの言葉を、二値的な、あるいは全称判断的な意味に限定して用いようとしているし、それを他者にも強いている。
  • 多かったというのはここでは、割合に関する主張だから、その割合が定義されている必要があるし、それに関する言明は、統計的なものにならざるを得ない(時代小説家なる集合に属する要素を網羅出来ますか?)。

@hi_kmd 「反証されている」と「実質的に反証されている」のあいだには決定的な違いがあります。前者は可能性を否定するもの、後者は可能性と蓋然性を肯定するものになります。蓋然性のある以上、臨床医が(患者の訴えに反して)病因の検討から外してよいものではないでしょう。
http://twitter.com/yunishio/status/365296196891324416

反証実質的に反証は相当に違うそうです。前者は可能性を否定するものとある事から、やはりそれに、全称判断的な意味を持たせている(それ以外を持たせようとしない)ようです。しかしながら、先にも見たように、yunishio氏は別の時には、食通が多かったことを証明という表現を用いています。これは、実質的な証明だとでも言うのでしょうか。いやそうはならないでしょうね。何故なら、反証と「実質的に反証」が決定的に違うと言っていて、その表現の違いを重く見ており、自分はそこでは実は厳密な意味で用いていなかったなどと言う事が通用するはずが無いのですから。
どうやらyunishio氏は、NATROMさんが、

  • 最初は反証されていると言った
  • それが実質的に反証に変化した

という事に拘っているようです。これは、今引用した文に書かれてあるような理由からでしょうが、この、用法に対する拘りは多分に、yunishio氏個人の語感の問題でしょう。もちろん、なるだけ経験的な現象に証明の語を用いたく無いという立場はあるでしょうし、私自身がそうであるのですが、かと言って、少し表現を変化させたり補ったりしたのを、文字列の差異を捉まえて、この表現は用いるべきでは無い(これはこう用いなくてはならない)と批難するようなものでも無いでしょう。
証明という語を用いる場合は全て数学的厳密な意味で用いなくてはならない、という事が証明出来るのならともかくも。
医学的な議論であれば、数学的な意味における証明や反証が出来ないのは明らかです。それは経験的に見出される知見に関する議論で、対象は場合によって無限であるが経験は有限であるから、そもそも厳密な証明は不能、という事です。
当然、その辺りの議論に不案内な人に対して、ここで用いる証明とは実はこれこれこういう意味で……と補足するのも重要でしょう。と言うか、NATROMさんが実質的に云々と言っているのはまさにそれです。

@kumicit ちなみに、その「反証不能」であるはずのことを、NATROMさんが「すでに反証されている」と言ってしまったことについては、すでにオレが指摘させていただきました。
http://twitter.com/yunishio/status/375627444922748928

ここでの反証不能というのは、議論における態度にまつわる事です。態度というのは、言葉遣いとかそういう話では無くて、反論なりを受けた時にどう対応するか、という所です。
たとえば、ある超常的な能力を持つと称する人が、懐疑的な人も含めた研究者による実験に協力したとしましょう。その結果、超常的な能力は全く発揮できなかったとします。この時に、能力に懐疑的な人がいる場では能力が発揮出来ないと主張したらどうでしょうか。これでは、懐疑的な人があり無しを確かめる事は不可能ですね。これが、反証が事実上不可能反証が事実上不可能な方向に進んでいるように見える: 忘却からの帰還)という事です。
科学は、その主張が反証され得るかどうかという観点で見る事が重要である、というのはポパー絡みの話でよく知られているでしょう(反証可能性)。けれど、現実の科学的営みを考えた場合、正統の科学であっても、反例が現れた時に、理論の細かい部分を修正して理論の核の所を護ろうとする事があるし、実際に重要なのは、その反例なりに対してどのような態度で対応するかどうかだ、という議論も、科学哲学の教科書の教える所です。
その意味では、経験科学の議論は、必ずしも純粋に形式論理的な見方だけでは捉え切れない、と言えます。
NATROMさんの言っている反証とは、二重盲検RCTがいくつも行われた結果、肯定的なものが得られていない事から、ごく微量の物質を原因とする症状である、という主張は成り立たないと考えて良かろう、といような意味合いです。二重盲検RCTは、原因と想定される物質が症状を惹き起こすか否かを直接的に確かめる方法ですから、それは、因果関係にあるかどうかを知る方法でもあります。それによる研究が蓄積されて肯定的で無い(化学物質過敏症概念を支持するもので無い)結果がある事をもって、実質的に反証されたとNATROMさんは表現しているのでしょう。
対して、化学物質過敏症を支持する側が事実上反証不能な方向に行くとは、

  • 原因←物質
  • 結果←症状

を際限無く広げる事によって、主張を否定しようが無くする、という事です。極端になれば、何かによって何かが起きると主張してしまえば、地球上でヒトの接する可能性のあるあらゆる物質によって、症状と認識されるあらゆる結果が起こり得る、というような言明と同等となって、検証する事が出来ません。(何かで何かが起きる: 忘却からの帰還
反証不能であるかどうかは、検討している主張次第です。NATROMさんは別に、何かで何かが起きるというような主張が反証された、とは言っていません。言っているのは、一般に見られるような主張に関しては、二重盲検RCTの知見によって実質的に反証されているが、相手の主張次第では、事実上反証不能のものと看做さざるを得ないであろう、という事です。
yunishio氏は、化学物質過敏症を支持する者(の全て? 一部? 多くの? 少数の?)が、何かで何かが起きると主張していると考えている訳ではありますまい。
※ここら辺の議論については、ポパー、クーン、ラカトシュクワインらにまつわる議論を参照。読み物として、菊池聡『なぜ疑似科学を信じるのか: 思い込みが生みだすニセの科学 』等を薦めます。
ところで、yunishio氏は、

えっ、ホメオパシーは反証されてないんですか。オレはくわしく知らないですけど、それはないんじゃないかなあ。@Ntokunaki @NATROM
http://twitter.com/yunishio/status/346081695478476800

このように言っています。一方別の時には、

もしかしてIQ低いですか。ホメオパシー医学会はレメディを希釈するほど効力が高まると主張しており、すでに原料物質の分子すら残っておらず理論的に誤りが証明されています。また不適切な実験方法を持ちだして対照実験では有意差がなく反証されてないとでも主張しますか?w @NATROM
http://twitter.com/yunishio/status/361069157556563968

このような発言をしています。これはおかしいですね。まず、経験的な事柄について、理論的に誤りが証明というのは、yunishio氏の証明の用法にはそぐわないはずです。今の科学の理論は誤っている事を論理的には否定出来ませんから、既存の理論から演繹的に導かれた結論は、(yunishio氏の用法に従えば)証明などと呼べるような代物では無いはずです。
そして、
オレはくわしく知らないですけど、
です。詳しく知らないものについて、
理論的に誤りが証明されています。
などと断定的に言えるはずは無いではありませんか。知らないのならせいぜい、
理論的に誤りが証明されているそうです。
くらいにしかならないでしょう。今の文脈は、そもそも医学医療における証明とはどういう事か、どういう用い方をすべきか、という話です。ホメオパシーに関しては、誤りが証明されている、とさらっと流すような言い方が通用するはずがありません。どうして、ことホメオパシーに関しては証明という言葉を使って構わないのか、が説明出来なくてはならないはずです。だのに当のyunishio氏は、くわしく知らないなどと言っている。これでは、じゃあそもそも、あなたの主張する証明反証の限定された用い方はどうなったの、となるでしょう。もちろん、他人には厳しい用法を要求するが自分はいい加減で良い、という話ではありませんよね。