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道徳・フィクション・現象・言説

「江戸しぐさ」や「水からの伝言」は創作としてなら道徳教育の中で使えるか - dlitの殴り書き
この種の話(私は江戸しぐさの事は全く知らないので、水伝を想定します)を考える時には、言説現象とを分けて考えるのが重要ではないかな、と思います。
水からの伝言で採り上げられている現象というのは、言葉によって水の構造が変化するというものです。で、その現象を核にして、水と言葉にはこういう性質があるから、行動もかくあるべしという主張でくるんだ主張あるいは言説が、江本勝氏発信の、水からの伝言である、と言えます。
これを踏まえると、水からの伝言を創作として道徳教育の中で使うという事を考える時に、それは、対象とする言説全体か、その言説を支持する、核となる現象か、という観点を分けられます。
言説を対象としてみます。そうすると、水からの伝言というのは、核となる現象が真実である事をそもそも前提とした主張の体系である、と言えます。つまり、こういう現象が実際成り立つ、だからそれを教訓としよう、という構造になっている訳です。ですから、その意味で言えば、水からの伝言を創作として使う事自体が難しくなる、と考えられます。どうしても使おうとすると、フィクションの中で、それを真実と吹聴する存在を設定する、というようなやりかたは出来るかも知れません。具体的にはたとえば、物語で、江本氏のような人が出てきて、その人が、ある現象を真実だと言いふらす、といった感じでしょうか。ですからポイントは、そのような登場人物を物語の中でどう位置づけるか、という話になってきますね。ホラ吹きとして描くか、あるいは、真実を捉えた偉人として見せるか。いずれにしても、そのようなやり方の場合には、対象の言説や、それを支持する人、といったものは、フィクションの内部においてはさほどクローズアップされない、もしくは、構造的にクローズアップしようが無い、と言えるのかも知れません。
次に、現象。つまり、それを用いて何かを主張する存在とか、そういうのを除いて、言説内部における核となる現象そのもののみを考える場合。
フィクションでその現象を採り上げて道徳教育に用いる、という事を考えると、一体、どのような創作が可能でしょうね。フィクションであり、かつ、現象のみを考える訳ですから、前提として、現象がフィクションという物語の構造をとらざるを得ません。もし、その現象を真実として扱えば、それはフィクションでは無く、騙しとなります。
そうすると、どういう物語を作ったとしても、それを教材として用いる人が、その物語に触れた人から、それは真実かと問われたら、必ず、それは真実では無い、と答えなければなりません*1。そういう前提を踏まえつつ、現象を用いて創作するとなると……どんなのがあるのでしょうね。よく解りません。単に物語を作るというのでは無く、道徳の教材として用いるのですから、道徳的教訓を植え付ける(という言い方は好ましく無い?)という文脈の中に現象を埋め込む、というかたちにならなくてはなりませんから。
と、結局、ほとんど何も言っていないに等しいですが、dlitさんのエントリーを見て、このような事を考えたのでした。

*1:そうしないと、対象をフィクションとして扱うという前提が崩れるし、真実で無いと解っているものを真実だと言ってしまうのはそもそも道徳的か、という話にもなる