【メモ】「科学のようで科学で無い」

科学のようで科学で無いというのが、ニセ科学の一般的な定義。
ある説なり活動なりが科学のようで科学で無いと言える場合、それに関わる論者の認識を問題にする事が出来る。すなわち、

  • わざと
  • 本気

という分類。
間違った事を吹聴する時、その吹聴する主体は、意図的にそれを行う場合もあれば、全く本気でそう主張する場合もある。
まず本気
これは、自分が提唱する説なり、有用であると信ずる方法なりについて、それが本当に科学として認められるべきものだと確信している。つまり、騙そうとする意図は無いと言える。
対して、わざと
これは、自分が吹聴するものが科学で無い事を知っている場合。科学で無いと解っているにも拘らず、それが科学であると言う。
その目的に応じてさらに分類する事が出来るだろう。

  1. 他者を騙して利益を得る目的
  2. その場に参加する者が、対象がニセモノである事に了解を持っている、という場に提出する目的

1は要するに、詐欺的な目的。食べ物なりの効能を謳い、それに対して科学をにおわすようなお墨付きを与える。どこぞの○○教授の研究によれば、とか、実験の結果では、といった尤もらしい宣伝文句がつく。
もちろんこれは、薬事法等との絡みで、社会的に制限されチェックされる対象である。
2はつまり、嘘を楽しむ場などで用いられるという事。フィクションで用いられる仮構の設定とも言える。SFにおける科学っぽい設定などが典型である。
当然それは、いかにも科学っぽいが、現在の科学においては認められいないというような設定を巧く物語に組み込む事が、創作者としての腕の見せどころである。
これらはいずれも、外面的には科学のようで科学で無いものと言える。私は、これらを一括りにしてニセ科学と呼ぶ事を提唱する(以前からしている)。
ニセ科学の議論において、ニセ科学は人を騙すから、とか、ニセ科学は詐欺であるといったような意見を見る事がある。しかし実際には、ニセ科学⊂詐欺 のような構造では無いはずである。実際、ニセ科学は人を騙す、という見方では、本気で成り立つと思って主張しているような論者や説は押さえられない。すなわち、ニセ科学の定義に、提唱者の意図を持ち込むのはうまくない、と私は考える。意図のような、対象の認識を定義に含めると、その対象の認識のあり方を立証せねばならくなるからだ。
従って私は、意図的か否かというのは、ニセ科学概念の定義の話では無く、批判活動の動機付けなどとして位置づけられるべき所だと考える。
ちなみに、私はニセ科学を、科学を装うとは、最近はあまり表現しない。それは、装うというのが、意図的な行為を連想させるからである。だから今は、科学のようで科学で無いという、より一般的な定義のかたちでそのまま述べる事が多い。提唱者が本気だった場合には、その提唱される説というのはむしろ、装っているとは思いもしないと言った方がしっくりくる。
わざと科学っぽさを装わされるものの内、嘘を楽しむ場で用いられるものがあると述べた。それは専ら、SF等のフィクションでよく使われるものである。その意味では、対象となる説は、巧く装わされる事が歓迎されるという価値付けがなされている、と言える。すなわち、詐欺的なニセ科学とSF的ニセ科学は、その置かれているコンテクスト(文脈)あるいは情況が異なっている、と表現出来る。
菊池誠氏などは、SFなどで用いられるものを疑似科学とし、ニセ科学と区別するような使い分けをしている(※そういう用法で無くてはならないとは主張していない)。そのような文脈では、疑似科学ニセ科学が別個のようなものとして扱われる事がある。
しかし私が考えるに、もしここで、SF的な、社会的に肯定的な評価が行われる傾向のあるものを疑似科学と呼ぶとするならば、
疑似科学ニセ科学の真部分集合である
とするのが妥当なのではないか。逆では無い。つまり、疑似科学の一部がニセ科学なのでは無く、ニセ科学の一部が疑似科学なのである。
ニセ科学の一般的な定義を思い起こしてみる。科学のようで科学で無いものである。ここに、提唱者の価値判断は一切入っていない。ただ、言説や営為が、社会的に了解されている科学の説や営みとズレている、という事について述べているに過ぎない。従って、提唱者や創作者の意図という認識が、つまりその言説が発せられた契機という条件が入ったものは、ニセ科学という一般的な概念に含まれるものだと考えた方が、整理しやすいと私は考える。
ここで、疑似科学ニセ科学のような名前に拘る必要は無い。別に逆でも構わない。どちらの概念にどちらの語を当てはめるかは、多分に語感の問題でもあるし、社会的に誤解の無いように了解を取るべく選択していけば良い。重要なのは、概念であり構造である。
詐欺的ニセ科学やSF的ニセ科学は、埋め込まれている文脈が違う。これはつまり、
文脈を共有しない者には通用しない
という事をも意味する。SF的ニセ科学を例にとれば、そのような文脈に埋め込まれた説(創作物においては設定)は、文脈を離れれば、真実と思われる可能性を持つという事である。これは、創作者の意図を離れて解釈された結果である。その意味で、受け手が真実と誤認するかどうかは、主張者の意図とは、あくまでも相対的な関係にしか無い、という事だ。つまり、主張者が巧みに設定した、フィクション上のものを意図して創作したとしても、受け手がそのように取るとは限らない。文脈を共有しなければならない。
その意味では、説が埋め込まれたに対する社会的な認知が重要であると言える。つまり、フィクション上の設定は常に意図的なウソ(ここに善悪の価値判断は含まない)や誤りを含み得るのだ、という構えを受け手が持てるかどうか。
そして、フィクション上で想像され創造されたニセ科学は、創造された場そのもので触れられる事もあれば、間接的な伝達の結果伝わる場合もある。たとえば小説なら小説、アニメならアニメそのものに触れて知るという事もあれば、その文脈から離れて、作品を見聞きした人から仕入れる場合もある。そして、フィクション上での設定であったものが、真実として捉えられる可能性を持つ。
科学的な設定に限らず、フィクションの設定を本当だと信じた人も多いはず。ゆで理論しかり、キャプテン翼の技しかり、民明書房しかり。それは、文脈を共有している者にとっては、作品に組み込まれた面白い設定なのだけれども、人によっては、この世で成り立つほんとうの事として捉えられるのだ。
それは場合によっては、文脈を知っている人でも起こる。たとえば年少者であれば、それがフィクション上のウソの設定であるという価値付けを理解するだけの知識が無く、上で挙げたような、ゆで理論のごときを、真実であると誤認する可能性を持つ。