自分とマスク。エビデンスとコミュニケーション

実は私、マスクを常備し毎冬着けています。

ただ、それは感染防御が目的では無く、冷気に口鼻が曝されると調子が悪くなるからです。鼻や喉の症状ですね。血管運動性鼻炎と診断された事もあります。

そういう事情ですが、外からは、いつもマスクを着けている人に見える訳で、マスクに感染防止効果なんて無いのに的な考えかたをしている人からは、奇妙な感じを覚えられるかも知れません。そういうのは、一つの社会的認知の問題、と言えるでしょう(※別に、そう見られる事自体は、何ともありません)。

ちなみに、毎シーズン使っているので、何シーズンか分は常に備蓄しています。足りなくなる事の心配はしていません。

考えてみると、マスク不足が懸念される原因の一つは、転売目的の買い占めだったりしますよね。だから、

マスクの効果が無い事と、マスク不足への懸念を同時に表明する

意見、特に医療者からのそれに触れると、

いや、効果が出る可能性があるならしても良いだろうし、そもそも自分は買い占めたりはしない

なんて思われるでしょう。これも心理社会的な話。習慣としてマスクを着けている人、感染防止効果があるかもと考えている人からすれば、システマティック・レビューがどうとか、CDCがとか言われても、知らんがな、といった所でしょう。言いかた言われかたも、コミュニケーションでは重要なのです。しかも、WEB上での情報発信なんてのは、誰が受け取るか判らないものなのですから。

私は、

医療者では無いが、疫学・公衆衛生学の知識を少し知っている

という意味で、ある種の特殊な立場の人間だと思います。メタアナリシスやシステマティック・レビューの概念を知っている、エビデンスピラミッドの事も解っている(更に言うと、ヒエラルキー構造でエビデンスを位置づける問題も認識している)。だから、理論的考察よりも、曝露-帰結 のありようのほうが重要という事情も良く知っている。

けれど同時に、専門家が頭ごなしにものを言う事に対する反発や苛立ちも良く解ります。なんだその言いかたは、非専門家を馬鹿にしているのか、と。いきなりエビデンス云々と言われて反発するのも、そういうものでしょう。エビデンス臨床的根拠を指すのであって、その土台・背景には、かなり複雑な知識の体系と理論がある訳です。それをすぐに理解出来るはずが無い。しかも、エビデンスなる語は、異なる分野でも用いられる事があります(システム開発プロセスや、ソフトウェアの互換性検討に伴うテスト等。私は立場上、そちら方面も少し知っています)。

有意差の話。効果が無い事の証拠として有意差が無いのを持ち出すのは、明らかに誤っています。なぜなら、差が有意で無いのは(私は、自分から有意差なる語は使わない)、帰無仮説を棄却出来なかった、との意味しか無いから(帰無仮説が棄却出来ないのは、帰無仮説が正しい事を意味しないのは、統計的仮説検定の基本)。それは正しい。それに、厳密な事を言うと、差が無い仮説の検討をする事自体に、あまり意味が無い。

そこで、メタアナリシスなど、複数の研究を統合した研究では、効果の範囲を検討し、差の程度に実質科学的な意味(医学的には臨床的意義)が無い場合、効果が無いと評価する訳です。ホメオパシーレメディなんかがそう。つまり、有意差云々の話だけで無く、メタアナリシスやシステマティック・レビューの話が出されていた場合、それは効果が無い事の重要な証拠の可能性がある(可能性)、と捉える必要はあります。そこはちゃんと押さえておくべきなのです。

この辺、『数学いらずの医科統計学』という本が、ものすごく参考になるので、興味のあるかたは、読んでみてください。

そういった事情や知的背景を、どれだけ押さえ、諒解を取って議論するか。あるいは知らない人に紹介するか。めちゃくちゃ難しい話です。ほんらいは、何年もかけてじっくり勉強をして身につけるような事だから、無茶と言っても良い。それをきちんと認識した上で、どのように発信するか、コミュニケーションを取るか。発信側も受信側も、よく考えるべき所だろうと思います。