検診の正当化

改めて整理しておきます。

余剰発見(過剰診断)とは

余剰発見とは、

それによる症状が出ない病気を発見する

事です。病気がある/無い と確定するのを診断と呼ぶとすれば、それは過剰診断と表現出来ますし、病気を見つけるという意味内容に着目すれば、余剰発見と言えるでしょう。

正確には、症状が出ない、または死亡しないものを見つける、とすべきでしょうが、通常、症状が全く出ないのにその病気によっていきなり死亡する事は、あまり考えないでしょうから、症状が出ないものを発見する、としたほうが簡潔です。

検診とは

検診とは、検査→診断→処置 等も含めた、一連のプロセスあるいはシステムであると捉えられます。検査単体でも処置のみでも、それを検診と表現しません。もっと言うと、クローズアップすれば、検査もそれ自体が複雑なプロセスです。

また、検診は、無症状の時に見つけるのが必要条件です。だから、何か調子が悪くてとか、外見的な症状が出たりとか、そういうきっかけで受診して病気が発見されたとしても、それは検診とは呼ばれません。

検診の効果とは

検診は、それをする事によって、予後を良くする、つまり、死亡までの期間を長く(生存期間を長く)したり、QOLが下がる程度を抑えたりする、のが目的です。

無症状時に見つけた疾病に処置(薬物療法や手術、化学療法や放射線治療など)をおこなったとして、それが目的を達せられないとすれば、検診が効果をもたらさなかったのを意味します。

同じ人に対し、処置しない場合と処置した場合とを比較するのは不可能なので、効果を検討する際には、似た集団を用意し、検診する群としない群とで比較します。これが、検診で見つかった群と検診以外で見つかった群との比較ではいけません。何故なら、検診は、より悪くなりにくいのを見つける傾向があり、また、早く見つける事自体が見かけ上の生存期間を延ばすので、それが、ほんとうの効果を歪めて見せる可能性があるからです。

クリティカルポイント

病気に対する処置の成否を左右する時点を、クリティカルポイントと言います(正確には期間でしょうが)。これは、対象の病気、検診する時点での処置の種類などによって変化します。病気によっては、転移するかどうかがクリティカルポイントになるでしょうし、転移してもそれほど問題にならない場合があるでしょう。論理的には、それが1つである必要はありません(何段階かのクリティカルポイントも想定出来る)。

つまり、検診が上手くいくかどうかは、

検診でクリティカルポイント前に発見出来るか

にかかっています。

DPCPとクリティカルポイント

病気は、大まかに、

発生→検査により発見可能→症状発現→消退(治癒や死亡)

上記のような経過を辿ります。検診とは、症状の無い期間に発見するのが条件ですから、検査により発見可能→症状発現の間で見つける事です。この期間を、

前臨床期内発見可能期間(DPCP)

と呼びます(本によって少し訳語が異なります)。

そして、検診が上手くいくには、

DPCPにクリティカルポイントがある

のが必要条件です。DPCPにクリティカルポイントが無ければ、早く見つけても意味が無いですし、発見可能より前にクリティカルポイントがあれば、見つけようが無いからです。

過早診断(造語)

DPCPにクリティカルポイントが無く、症状発現の後にあるとしましょう。その場合、

症状が出てから処置しても間に合う

と言えます。病気によっては、発見可能になってから症状が出るまで、相当長い期間がかかるものがあります(甲状腺がんなど)。その場合、処置をおこなうのが、何年も早まる事になります。遅くても構わないにも拘らず、です。

このような概念を指す適切な用語が無いので、ここではひとまず、過早診断と表現しておきましょう。

病悩期間

病気であると診断されると、当然その人は、自分はそういう病気を持っているのだ、と認知します。その認知のありかたは、疾病の性質や、それに対する知識の度合い、あるいは、周りからのアドバイスなどによって、違ってくるでしょう。特に、がんなどの場合は、死を連想します。

こういった認知を持つ期間を、病悩期間と呼びます(※この語、結構多義的なので、ここではこう呼ぶ、くらいに取ってください)。

通常は、何らかの症状が出てから受診し、病気であると診断されて病悩期間が発生しますが(診断前の、こういう病気かも……と悩む期間は含まないとします)、検診の場合には、DPCPで見つける訳ですから、その分(発見時から症状発現時――これは仮想的)の病悩期間が発生する訳です。それは、当然の事ながら、心理的社会的負担を伴います。もしDPCPにクリティカルポイントが無く症状発現後にある場合(過早診断)には、不必要の害です。DPCP内にクリティカルポイントがあり、その前に見つけられれば、効果と引き換えに受け容れる害だと言えます。

余剰発見があっても検診したほうが良い事がある

余剰発見は、症状が出ないものを見つける意味なので、それは、無いほうが良いです。しかしだからと言って、

余剰発見が起こる検診はすべきで無い

とはなりません。検診をしたほうが良いかそうで無いかは、集団における程度を評価して決めるものだからです。

ある個人について、余剰発見と効果発揮が両立する事はあり得ませんが(定義により)、集団を観察すれば、余剰発見の人がこのくらいの割合で、効果が発揮された(主要なのは、生存期間延伸)のはこのくらいで……と評価出来ます。ですから、余剰発見が起こるからやるべきで無いという話にはなりません。

余剰発見が無くても検診しないほうが良い事がある1

無くてもというのは、割合が低い、という意味に取ってください(こういう議論で、完全にゼロである、と評価する事はありません)。

余剰発見が起こらない検診なら実施したほうが良いのでは、と思われるかも知れませんが、そうは言えません。たとえば、

有効な治療法が確立されていない

場合はどうでしょう。そのような病気をDPCPで見つけても、有効な処置が出来ないのですから、検診は効果を発揮出来ません(つまり、クリティカルポイントがDPCP以降に無い)。にも拘らず、病悩期間が発生します。害は発生するのに効果は見込めない(過早診断の害しか無い)ので、そういう病気に対する検診は、推奨されません。と言うか、推奨される検診のほうが稀なのです(たとえば、日本における がん検診で、推奨されるものは5種類)。

余剰発見が無くても検診しないほうが良い事がある2

前節は、余剰発見が無くても検診しないほうが良い場合の内、クリティカルポイントがDPCP以降に無いものでしたが、他に、

DPCPが症状発現以降のみにある

場合もあります。たとえば、症状が出た直後に見つけても、数年後に見つけても、予後が変わらないとすれば、敢えてそのような病気をDPCPで見つけてもしょうが無い(どころか、病悩期間を延ばすばかり)と言えます。もちろん、個別ケースで見れば、色々の条件が関わり、情況によっても変わってくるでしょう。症状発現直後であれば適切な処置が受けられたが、症状が出てから経済的に困窮したりして受診が出来なかった、といった場合には、予後は悪くなるでしょうから。そういうのは仮想的なものであって(それだと様々のパターンを想定出来ます)、結局は、集団的に評価する必要があります。その上で、知見をきちんと知らせてから、受けるか否かの意思決定をおこなってもらう訳です。

検診の正当化

これまでを踏まえて、では、どのような検診であれば実施を正当化出来るか(専門の評価機関や国レベルでの推奨など)、と言うと、

  • ある程度の効果が見込め
  • 害がある程度抑えられる

ような場合です。これはとても難しい条件ですし、効果の割合と害の割合とを比較しなくてはなりません。それは量的な比較ですから、結局の所は、先述の通りに、受ける(機会がある)側が、情報を得た上で意思決定する必要があります。そこで重要なのは、

情報を充分に、正確に伝える

事でしょう。検診の効果とは何かとか、そもそも効果が得られない場合がある事。あるいは、過早診断による病悩期間の発生を受け容れる必要がある所などを、きちんと理解してから受けるかどうかを決めてもらうべきです(必ずそこには、くじ引き的構造が入ります)。これは難しい話ですが、しかし、出来る限りやらなくてはいけません。検診には害が無いとか、やらないよりはやったほうが良い、などと考える人もいます(私自身、勉強をするまでそう思っていました)から、そういう人の認識を改める事くらいは、最低限おこなっておくべきです。

参考文献

ここで紹介した事は、検診についての大まかな部分です。より詳しく勉強したいかた向けに、本を紹介します。ただし、難しいです。検診にまつわる議論をきちんと押さえるのは、骨が折れます。たとえば、過剰診断の概念は簡単に理解出来る、というような事をうそぶく人もいますが、仮に基本的な定義を理解出来たとしても、それが実態としてどうなっているか、どう評価するか、とか、検診の効果をどう測って害の程度とどのように比較するか、といった総合的な観点を持たないと、検診の是非など議論出来ません。

がん検診判断学

がん検診判断学

疫学 -医学的研究と実践のサイエンス-

疫学 -医学的研究と実践のサイエンス-

  • 作者:Leon Gordis
  • 発売日: 2010/06/01
  • メディア: 単行本

↓私が書いたものです。おそらく、WEB上で読めるものとしては、かなり詳しく噛み砕いて説明している部類だと思います(そうなるよう書きましたので)

interdisciplinary.hateblo.jp

鶏刺し(鳥刺し)のはなし

togetter.com

↑これを読んで、色々考える所あり。整理も兼ねて。

鶏を生食する習慣がある地域における、生食用食鳥肉の衛生基準

https://www.pref.miyazaki.lg.jp/eiseikanri/kenko/ese/documents/000183422.pdfwww.pref.miyazaki.lg.jp

↑(PDF)宮崎

www.pref.kagoshima.jp

↑鹿児島

宮崎の基準は結構前のもの。改定の有無は不明。鹿児島は2018年に改定。

鹿児島の改定は、水切りの手順追加。筋胃・肝臓(砂肝とレバー)を生食可から除外(PDFに差分情報あり)。

地元の店で、調理済みの鶏刺しまたは、鶏刺し用の肉を見ると、たいてい皮がついており、炙ってある(焼烙殺菌の結果)。これは香ばしさや歯ごたえ、食味にも関係。

新鮮なほうが危険?

新鮮なほうが危険、との意見があるのは、病原体であるカンピロバクターの特性より、いくらか時間経過があったほうが病原体の数が抑えられる(空気中に曝されるから)、という理由からだと思われる。

www.niid.go.jp

本菌の発育には微好気条件(酸素濃度:5〜10%)が必須

www.n-shokuei.jp

冷凍・冷蔵庫の中で長期間生存

これは、汚染された肉がどのような経過を辿るかという部分の問題であり、処理手順においては汚染させないのが最重要の目的となる。宮崎・鹿児島の衛生基準は、それを企図している。

カンピロバクター食中毒の発生状況

https://www.mhlw.go.jp/content/11121000/000608208.pdf

↑(PDF)2019年全国。カンピロバクター由来の事件数は、300から600くらいを推移。患者数は2000前後。

余談。円柱グラフ(3D円グラフ)を使わないで欲しい。

カンピロバクターを原因とする食中毒は、鶏肉を食べて発生したカンピロバクター感染と同じでは無いので注意する。

www.nposfss.com

↑食品別のグラフが描かれている(食品安全委員会のリスクプロファイルへのリンクがある)。鶏由来の割合は高い。

宮崎県でのカンピロバクター食中毒の年次推移を探したが見つからず。

www.pref.kagoshima.jp

↑鹿児島県の統計。全国との比較あり。これは、全国に較べてリスクが低いのをアピールしたい事の顕れだろう。

www.pref.kagoshima.jp

↑各年のデータ。件数がゼロの年もある。

注意点。1つの県と全国を比較しているので、数百件対数件といった比較はしてはいけない。出来れば都道府県ごとの比較が良いが、食中毒関連のデータで良い感じのがあれば、教えて頂ければ幸い。

ここ数年は、5件以内で推移しているので、絶対数として低いとは言えそう。参考として、2019年の東京都は36件↓

www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp

繰り返すと、カンピロバクター由来鶏刺し由来は違うし、鶏刺し由来鶏由来も違う。加熱不十分の場合もあるし、交差汚染( 交差汚染 | HACCP関連情報データベース)の場合もある。

www.pref.osaka.lg.jp

↑2019年の大阪府。30件。

リスク。分母

上では、年ごとの発生件数を比較。ただ、件数のみをシンプルに比較するのでは良くなくて、

  • 人口
  • 喫食量(何人食べるか)
  • 喫食量(1人がどのくらい食べるか)

なども考えなくてはならない。

件数を人口で割ると、年次の累積発生割合(疫学ではリスクと言う)となるが、これは、ある要因の、人口に対するインパクを示す指標となる。

いまは、食中毒のはなしだから、当該食品が、どのくらい食べられているかも考える必要がある。仮に、人口における、鶏刺し由来食中毒の割合が同じだとしても、どれくらい食べられている(曝露されている)かが違えば、かたほうは、その食品が持つ危険さを抑えている事が示唆される。

それを考えると、鹿児島県において発生件数が数件であるのは、喫食の頻度を鑑みれば、鶏刺しの危険を抑えられていると推測する事は可能。

ただし、このままでは、実際どの程度喫食されているか、の定量的な評価では全く無い。それは結構難しいと思う。生産量や出荷量等を指標とするか、とか、調査研究によって求める(たとえば食習慣のアンケートとして)などのアプローチが考えられる。この部分はしっかりおこなうべき。

鶏を生食する地元の人間の経験から言えば(ある種の報告)、鶏刺しはそこら辺のスーパーに売っているレベル。イオン(マックスバリュ)にも売っているし、小さな商店で見る場合もある。

ここで、そこら辺に出回っている事と、衛生基準をクリアしたものがそこら辺に出回っているのは別である所には、注意しておく。包装に、衛生基準をクリアしたのを示すマークが印刷されている場合もあれば、調理場で調理されシンプルにパックされる場合もある。その意味では、消費者側としては、地元で販売されているものだから、概ね衛生基準はクリアされているであろうというくらいの判断しか出来ない。

もちろん、食中毒の発生件数というアウトカムから逆側に考え、このように抑えられているのだから、衛生管理もマクロ的には上手く行っているのであろう、と推測も出来る。

手順とリスク

前節最後に書いた所とも関連するが、衛生管理の手順は、主にメカニズム的な観点を考慮(汚染経路の、生物学的や空間的仕組み。その結果としての、病原体検査陰性)して決められているだろうから、それをすればちゃんと危険性は抑えられるとすぐにはならない。結局は、人口に対してどの程度の影響を与えるか、の観点も必要(疫学や公衆衛生学的視点)。

この辺りをしっかり研究したものは、探した限りでは見つからなかった。

先に紹介した、鹿児島県の衛生基準では、改定によって、砂肝とレバーが生食可の部分から外された。これは、手順の改良でも汚染(これは、食中毒のリスクそのものとは違うが、その原因物質の量的評価である)を十分に抑えられないという理由からで、

news.yahoo.co.jp

↑この記事の表現を借りれば、生食文化を守るため県はこの部位を「切った」のだ。とも言える。

味のはなし

生食すべきでは無い、という意見に付随して、味の良し悪しを持ち出すのは適当では無い。それは嗜好に関係するものだから、焼くより生のほうが美味しいと感じる人もいるだろう。それに対し、ちゃんとした焼きかたをしていないからだとか、ほんとうに美味しい(火を十分に通した)物を食べていないのだ、といった風に持っていくと、議論がズレてしまう。

生肉には味は無い、それは調味料の味だ、のような意見を言う人もいるけれど、少なくとも私にとっては、その意見はよく解らない。味はちゃんとあるし、胸肉とモモ肉では全く食味が異なる(余談:調味料は、醤油――砂糖が入っている――に、すりおろしのにんにく、またはすりおろしのしょうがを合わせる事が多い)。

文化のはなし

肉の生食について、文化を持ち出すのも適切では無いと思う。そもそも、文化と言えるか否かというのを、どうやって評価するのか。習慣が始まってからの年数か、あるいは空間的な広がりか。

blogs.mbc.co.jp

↑鹿児島における鶏刺し食の歴史や、衛生基準についての記事。

ちなみに、私の身近にいる70代の人に訊いてみたら、その人が小さい時に鶏刺しがあったか(食べていたか)については、よく憶えていなかった。憶えているほど頻繁に食べてはいなかった、とは言えるかも。

interdisciplinary.hateblo.jp

↑以前書いたもの。文化や自己責任について。

ハイリスクグループ

鹿児島の衛生基準、改定版には、一般的に食肉の生食は食中毒のリスクがあること。 および、子ども,高齢者,食中毒に対する抵抗力の弱い人は食肉の生食を控えることと明記されている。一般に食中毒は、子どもと高齢者がハイリスクとされるだろうから、それを補外しての注意と考えられる(実際に、どの層がハイリスクであるか、を解析した研究は見当たらず)。

ゼロリスクとリスク評価

リスクとは、ある無しでは無く、多い・少ない(高い・低い)で評価されるべきもの。事例のみをもって、食べられるべきでは無いとするのは問題。※食べたく無いと考えるのは、個人の自由

カンピロバクター感染由来で、ギラン・バレー症候群が発症する事が知られている↓

www.nhk.or.jp

これも、(相対)頻度を考えるのが重要。

www.jbpo.or.jp

↑記事によると、GBSの発症率は年間で10万人に対して1.15人と推定とある。当然、全てが鶏刺し由来では無い(し、先に書いたように、鶏由来と鶏刺し由来は違う)ので、ほんとうは、

鶏刺しを食べたらどの程度発症するのか

が評価されなければならない(先述の通り、起こるから食べるべきでは無いといった意見は、ここでは議論しない)。

www.neurology-jp.org

↑日本神経学会のガイドライン(2013年)。

鶏生食由来のカンピロバクター感染由来のギラン・バレー症候群がどの程度であるか、なかなか疫学データが見つからない。

kaken.nii.ac.jp

↑ここには、GBSの約30%はカンピロバクターの合併症として起こるとある。

言えるのは、発生する程度は、

鶏を生食した(概念的に、加熱が十分で無かったのと、意図的に生で食べたのとは、分ける)内、カンピロバクターに感染した内、ギラン・バレー症候群を発症した

割合なので、人口総体に対する割合としては、相当小さくなるはず。※※小さいから良いと言っていない事に注意※※

リスクに関して、起こるから、というのを理由に出来るとすると、およそあらゆる食物について、そう言えてしまう。たとえば、飴やパンで窒息する例もある。また、それによる中毒死が起こるのが知られているフグ毒については、手順の厳格化と免許制度によって、リスクを出来るだけ下げている訳で、リスクは高低で考えるのが必要。

https://www.fsc.go.jp/senmon/sonota/chirashi_chissoku_jiko.pdf

↑(PDF)食品安全委員会による、食品由来の窒息事故のリスク評価。

地元の人間としての区別

鶏を生食する地域で過ごした人間としての習慣。鶏刺しとして売られている物はそのまま食べるが、生食用で無い鶏は絶対に生で食べないという認知。意識としては、魚の生食に近い。魚介類でも、(調理済みの刺身以外で)生食用のラベルが貼られているか、気にするでしょう? あんな感じ。

もちろん、どういう認知を持っているかは、細かい地域における習慣や、各家庭の食習慣などの要因も関わってくるので、全体としての傾向を知りたいなら、きちんと調査すべき。

要するに、生の鶏を更に区別している、という事。生であれば食える、と認知してはいない。たぶん、南九州以外の人も、店で出されたから食べるという区別をしている人もいるはず。それは、プロフェッショナルが提供するものは一定の品質を確保した物を提供しているといった知識からだと考えられ、その事自体は、すぐに責められるべきものでは無い(専門の部分はプロに任せる、という思考の節約であり、それは合理的な選択の一種なのだから)。問題は、一定の品質を保つという仕組み自体が上手く行っていなかった所にある(時間経過が短く、冷蔵保存をしていれば十分である、といった誤認)。