《正(陽)/負(陰)のラベリング効果》の言い換え案

医療におけるラベリング効果の話です。詳しい説明は↓

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ラベリング効果には、好ましいものと好ましく無いものとがあり、それぞれを、

  • のラベリング効果
  • のラベリング効果

あるいは、

  • 陽(陽性)のラベリング効果
  • 陰(陰性)のラベリング効果

と呼ぶ場合があります。あるのですが、これらは検査の結果を知る事に伴う心理的現象を表す言葉なので、検査の結果そのものを表す陽性/陰性や正/負の語と紛らわしいです(正/負も陽性/陰性も、positibe/negativeに対応する語なので)。この用法に従えば、

  • 検査で陽性の結果だったため、陰性のラベリング効果が生じた
  • 検査で陰性の結果だったため、陽性のラベリング効果が生じた

↑こういった表現が出来てしまいます。解りにくいですよね。

このような事情があって私は、もっと他に良い表現が無いものか、と以前から考えていたのですが、思いついたものがあります。

  • 楽観ラベリング効果
  • 悲観ラベリング効果

↑この2つです。いずれも、字面的にすぐ解りやすく、日常的に用いる語でもあり、何より心理的な動きを指している事を明らかに表現出来ている、と思うのですが、いかがでしょうか。辞書的定義に照らしても、

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物事の先行きをよいほうに考えて心配しないこと。心配するほどの事態でもないとして気楽に考えること。

dictionary.goo.ne.jp

物事が思うようにならないため失望すること。

上記のようになっており、違和感も無いと思います。これを採用すれば、最初に書いた例文は、

  • 検査で陽性の結果だったため、悲観ラベリング効果が生じた
  • 検査で陰性の結果だったため、楽観ラベリング効果が生じた

↑このように表現出来ます。だいぶん解りやすくなっているのではないでしょうか。

検索してみた所、同じような用法は見られず、他の分野で採用されてもいないようです。今後は、この語を使ってみようと思います。

検診の正当化

改めて整理しておきます。

余剰発見(過剰診断)とは

余剰発見とは、

それによる症状が出ない病気を発見する

事です。病気がある/無い と確定するのを診断と呼ぶとすれば、それは過剰診断と表現出来ますし、病気を見つけるという意味内容に着目すれば、余剰発見と言えるでしょう。

正確には、症状が出ない、または死亡しないものを見つける、とすべきでしょうが、通常、症状が全く出ないのにその病気によっていきなり死亡する事は、あまり考えないでしょうから、症状が出ないものを発見する、としたほうが簡潔です。

検診とは

検診とは、検査→診断→処置 等も含めた、一連のプロセスあるいはシステムであると捉えられます。検査単体でも処置のみでも、それを検診と表現しません。もっと言うと、クローズアップすれば、検査もそれ自体が複雑なプロセスです。

また、検診は、無症状の時に見つけるのが必要条件です。だから、何か調子が悪くてとか、外見的な症状が出たりとか、そういうきっかけで受診して病気が発見されたとしても、それは検診とは呼ばれません。

検診の効果とは

検診は、それをする事によって、予後を良くする、つまり、死亡までの期間を長く(生存期間を長く)したり、QOLが下がる程度を抑えたりする、のが目的です。

無症状時に見つけた疾病に処置(薬物療法や手術、化学療法や放射線治療など)をおこなったとして、それが目的を達せられないとすれば、検診が効果をもたらさなかったのを意味します。

同じ人に対し、処置しない場合と処置した場合とを比較するのは不可能なので、効果を検討する際には、似た集団を用意し、検診する群としない群とで比較します。これが、検診で見つかった群と検診以外で見つかった群との比較ではいけません。何故なら、検診は、より悪くなりにくいのを見つける傾向があり、また、早く見つける事自体が見かけ上の生存期間を延ばすので、それが、ほんとうの効果を歪めて見せる可能性があるからです。

クリティカルポイント

病気に対する処置の成否を左右する時点を、クリティカルポイントと言います(正確には期間でしょうが)。これは、対象の病気、検診する時点での処置の種類などによって変化します。病気によっては、転移するかどうかがクリティカルポイントになるでしょうし、転移してもそれほど問題にならない場合があるでしょう。論理的には、それが1つである必要はありません(何段階かのクリティカルポイントも想定出来る)。

つまり、検診が上手くいくかどうかは、

検診でクリティカルポイント前に発見出来るか

にかかっています。

DPCPとクリティカルポイント

病気は、大まかに、

発生→検査により発見可能→症状発現→消退(治癒や死亡)

上記のような経過を辿ります。検診とは、症状の無い期間に発見するのが条件ですから、検査により発見可能→症状発現の間で見つける事です。この期間を、

前臨床期内発見可能期間(DPCP)

と呼びます(本によって少し訳語が異なります)。

そして、検診が上手くいくには、

DPCPにクリティカルポイントがある

のが必要条件です。DPCPにクリティカルポイントが無ければ、早く見つけても意味が無いですし、発見可能より前にクリティカルポイントがあれば、見つけようが無いからです。

過早診断(造語)

DPCPにクリティカルポイントが無く、症状発現の後にあるとしましょう。その場合、

症状が出てから処置しても間に合う

と言えます。病気によっては、発見可能になってから症状が出るまで、相当長い期間がかかるものがあります(甲状腺がんなど)。その場合、処置をおこなうのが、何年も早まる事になります。遅くても構わないにも拘らず、です。

このような概念を指す適切な用語が無いので、ここではひとまず、過早診断と表現しておきましょう。

病悩期間

病気であると診断されると、当然その人は、自分はそういう病気を持っているのだ、と認知します。その認知のありかたは、疾病の性質や、それに対する知識の度合い、あるいは、周りからのアドバイスなどによって、違ってくるでしょう。特に、がんなどの場合は、死を連想します。

こういった認知を持つ期間を、病悩期間と呼びます(※この語、結構多義的なので、ここではこう呼ぶ、くらいに取ってください)。

通常は、何らかの症状が出てから受診し、病気であると診断されて病悩期間が発生しますが(診断前の、こういう病気かも……と悩む期間は含まないとします)、検診の場合には、DPCPで見つける訳ですから、その分(発見時から症状発現時――これは仮想的)の病悩期間が発生する訳です。それは、当然の事ながら、心理的社会的負担を伴います。もしDPCPにクリティカルポイントが無く症状発現後にある場合(過早診断)には、不必要の害です。DPCP内にクリティカルポイントがあり、その前に見つけられれば、効果と引き換えに受け容れる害だと言えます。

余剰発見があっても検診したほうが良い事がある

余剰発見は、症状が出ないものを見つける意味なので、それは、無いほうが良いです。しかしだからと言って、

余剰発見が起こる検診はすべきで無い

とはなりません。検診をしたほうが良いかそうで無いかは、集団における程度を評価して決めるものだからです。

ある個人について、余剰発見と効果発揮が両立する事はあり得ませんが(定義により)、集団を観察すれば、余剰発見の人がこのくらいの割合で、効果が発揮された(主要なのは、生存期間延伸)のはこのくらいで……と評価出来ます。ですから、余剰発見が起こるからやるべきで無いという話にはなりません。

余剰発見が無くても検診しないほうが良い事がある1

無くてもというのは、割合が低い、という意味に取ってください(こういう議論で、完全にゼロである、と評価する事はありません)。

余剰発見が起こらない検診なら実施したほうが良いのでは、と思われるかも知れませんが、そうは言えません。たとえば、

有効な治療法が確立されていない

場合はどうでしょう。そのような病気をDPCPで見つけても、有効な処置が出来ないのですから、検診は効果を発揮出来ません(つまり、クリティカルポイントがDPCP以降に無い)。にも拘らず、病悩期間が発生します。害は発生するのに効果は見込めない(過早診断の害しか無い)ので、そういう病気に対する検診は、推奨されません。と言うか、推奨される検診のほうが稀なのです(たとえば、日本における がん検診で、推奨されるものは5種類)。

余剰発見が無くても検診しないほうが良い事がある2

前節は、余剰発見が無くても検診しないほうが良い場合の内、クリティカルポイントがDPCP以降に無いものでしたが、他に、

DPCPが症状発現以降のみにある

場合もあります。たとえば、症状が出た直後に見つけても、数年後に見つけても、予後が変わらないとすれば、敢えてそのような病気をDPCPで見つけてもしょうが無い(どころか、病悩期間を延ばすばかり)と言えます。もちろん、個別ケースで見れば、色々の条件が関わり、情況によっても変わってくるでしょう。症状発現直後であれば適切な処置が受けられたが、症状が出てから経済的に困窮したりして受診が出来なかった、といった場合には、予後は悪くなるでしょうから。そういうのは仮想的なものであって(それだと様々のパターンを想定出来ます)、結局は、集団的に評価する必要があります。その上で、知見をきちんと知らせてから、受けるか否かの意思決定をおこなってもらう訳です。

検診の正当化

これまでを踏まえて、では、どのような検診であれば実施を正当化出来るか(専門の評価機関や国レベルでの推奨など)、と言うと、

  • ある程度の効果が見込め
  • 害がある程度抑えられる

ような場合です。これはとても難しい条件ですし、効果の割合と害の割合とを比較しなくてはなりません。それは量的な比較ですから、結局の所は、先述の通りに、受ける(機会がある)側が、情報を得た上で意思決定する必要があります。そこで重要なのは、

情報を充分に、正確に伝える

事でしょう。検診の効果とは何かとか、そもそも効果が得られない場合がある事。あるいは、過早診断による病悩期間の発生を受け容れる必要がある所などを、きちんと理解してから受けるかどうかを決めてもらうべきです(必ずそこには、くじ引き的構造が入ります)。これは難しい話ですが、しかし、出来る限りやらなくてはいけません。検診には害が無いとか、やらないよりはやったほうが良い、などと考える人もいます(私自身、勉強をするまでそう思っていました)から、そういう人の認識を改める事くらいは、最低限おこなっておくべきです。

参考文献

ここで紹介した事は、検診についての大まかな部分です。より詳しく勉強したいかた向けに、本を紹介します。ただし、難しいです。検診にまつわる議論をきちんと押さえるのは、骨が折れます。たとえば、過剰診断の概念は簡単に理解出来る、というような事をうそぶく人もいますが、仮に基本的な定義を理解出来たとしても、それが実態としてどうなっているか、どう評価するか、とか、検診の効果をどう測って害の程度とどのように比較するか、といった総合的な観点を持たないと、検診の是非など議論出来ません。

がん検診判断学

がん検診判断学

疫学 -医学的研究と実践のサイエンス-

疫学 -医学的研究と実践のサイエンス-

  • 作者:Leon Gordis
  • 発売日: 2010/06/01
  • メディア: 単行本

↓私が書いたものです。おそらく、WEB上で読めるものとしては、かなり詳しく噛み砕いて説明している部類だと思います(そうなるよう書きましたので)

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