“「反反ワクチン派」の「医療クラスタ」” は “「心因性」という言葉を気のせい、詐病、大げさなどの意味で使って「全体の公衆衛生のために犠牲になってくれている少数の人」を侮辱” したのか?

はてなブックマーク経由で見かけました。

「反反ワクチン派」の「医療クラスタ」が「心因性」という言葉を気のせい、詐病、大げさなどの意味で使って「全体の公衆衛生のために犠牲になってくれている少数の人」を侮辱したのは忘れないラジよ。

↑このかたの意見は、分解して検討すると、

  • 反反ワクチン派
  • 医療クラスタ
  • 心因性の語を
  • 気のせい、詐病、大げさなどの意味で使い
  • 「全体の公衆衛生のために犠牲になってくれている少数の人」を侮辱した

このようです。上の2つは、何らかの性質によって括られた集団を指し、3番目と4番目は、用語を不適切な意味で用いたと批判し、5番目で、特定の人びとを不当に扱った、と批難しています。

こういう意見がある場合、

  • その括りかたは適切か
  • 具体的にどのような発言があったのか
  • 括った集団を指して批判するのは妥当か(その集団の傾向を適切に表わしているのか)

これらを検討するのが肝腎です。反反ワクチン派医療クラスタとあるので、ワクチンの害を指摘する人びとを批判し、かつ医療職である、というのが条件でしょう。どちらも曖昧(と言うか、括れる範囲が広すぎる)ではあります。

いずれにしても、具体例が無いと話にならないので、twitterのリアルタイム検索で、ワクチン心因性気のせいなどで調べてみました。もちろんこれは、網羅的な調査や、傾向や代表性が適切に反映されたものではありません。取り敢えず、そういう集団の成員と言えそうな人はどんな発言をしていたか、というのを拾いました。

心因性を」を「気のせい」とか「心の持ちよう」とかって翻訳するバカ共が、子宮頸がんワクチン副反応「被害者」を担ぎ上げて利用するもんだから、精神医学的評価をされずにほったらかされてるように見えてしょうがねぇ。

SCD+ADHDの小児科医・児童精神科医。専門領域は虐待医療と発達障害twitterプロフィールより。以下、プロフィール関連の引用は同様)のかた。明らかに、心因性のものを気のせいとする意見に強く批判的です。

子宮頸がんワクチンだけどさ、別に専門家側は気のせいなんて言ってないんだよね。心因性=気のせいみたいな誤解が広まってるんだけど。 この誤解はワクチン副反応だけにとどまらず、多くの人を苦しめるよ。 心因性の病気は社会的要因の影響を強く受けるから。 周囲の無理解偏見が悪化させるよ

検査技師のかた。検査技師を医療クラスタなる集団に含めて良いのか何とも言えませんが(その表現を使う側が定めるべき)。こちらのかたも、別に専門家側は気のせいなんて言ってないんだよね。と書いており、心因性を気のせいとしていない意見です。

心身症は体の異変であり、医学で使用する心因性=気のせい的な意味じゃーないよ。誤解!

循環器内科医師のかた。ワクチン行政関係者、マスコミ、政治家さんへと書いている事から、それら対象へ、心因性は気のせいとは違う、のをきちんと理解するよう促している意見と読めます。

その際に何度でも言っておきたいのは「心因性=気のせい」ではないという点だ。心因性でも、症状そのものは間違いなく存在する。

医師・博士(医学)・病理専門医のかた(PseuDoctorさんです)。PseuDoctorさんは、こういう部分への指摘をきっちりなさるかたなので、当然この種の問題にもそうです。

心因性反応を「気のせい」と明言した公的機関は、東京新聞こちら特報部だけ(だと思う)。

小児科専門医・国際渡航医学専門医・臨床遺伝専門医。のかた。これは、togetterへのコメントです↓

togetter.com

このtogetter自体が、心因性なる語の用いかたの難しさを議論しているものでもあります。

リアルタイム検索で見つかったのはこれくらい。ワードを絞り過ぎたので、あまりヒットしませんでした(広げるとヒットし過ぎて見つけにくいので)。もし、「反反ワクチン派」の「医療クラスタ心因性」という言葉を気のせい、詐病、大げさなどの意味で使っているような具体例が見つかれば、教えてください。

調べていて、このような意見を見つけました↓

反反ワクチン派の皆さんはこんなことはなかったと歴史修正しようとしてるけど、村上璃子氏とその取り巻きはそうだったよね。

ここで、HPVワクチンに関して積極的に情報発信をおこなってきた村中璃子氏(引用文は原文ママ。後ほど訂正されています)が、実際にそのような発言をした、と指摘しています。加えて取り巻きも、と言っていますが、これは全く具体的メンバーが解らない表現なので、ここでは放っておきます。

私は、村中氏がかなり強い表現を使う事もある論者だというのは知っているのですが(このブログで批判した事もあります)、氏が、心因性」という言葉を気のせい、詐病、大げさなどの意味で使っているような憶えは無かったので、改めて調べてみました。

wedge.ismedia.jp

↑これは、村中氏と開沼博氏(社会学者)との対談記事です。ここから引用します。

"身体化"は心の病気ではなく、心をきっかけとした身体の病気です。しかし、当初、多くの医師が口にした"心因性"という言葉が、心の病気、気のせいというイメージを抱かせました。そうやって傷ついた少女や母親たちには、ワクチンによる脳障害だと断じる医師たちが「いい先生」に見えてしまう。そして、新しい病気を発見したと主張したいハンス派の医師たちにとっても、彼女たちは欠かせない存在であり、共依存するわけですね。

↑これは村中氏の発言部分。この文を見ると、明らかに、心因性を気のせいと言っていない意見である、と読めます。身体化の概念を用いている事、心因性心の病気、気のせいというイメージを抱かせました。と言っている事、などからそう判断出来ます(イメージを抱かせたと言っているのだから、それは実際と乖離しているとの指摘と読める)。村中氏の意見総体をどう評価するかは措いて(引用文にも気になる表現はあります)、心因性なる語にどのような意味付けをしているか、の部分に絞って見れば、気のせいなどとは言っていないでしょう。もしかしたら、意見の変遷があったり、別所で違う主張をしている可能性もありますが(これは単なる可能性であって、蓋然性の高さの話ではありません)、それであれば、ここでそう言っている、と具体的に示すべきでしょう。

このように、私が調べた限りでは、明確に心因性」という言葉を気のせい、詐病、大げさなどの意味で使っている、「反反ワクチン派」の「医療クラスタと看做せるような人の発言は見られませんでした。存在するが見逃しているのかも知れません(かなり広範囲にわたるような括りかたなので、分母は大きくなる)。

もちろん、実際にそういう例が挙げられたとしても、それを敢えて、「反反ワクチン派」の「医療クラスタ」がと表現して良いのか、はまた別の問題です。これは集団の傾向を表すような言いかたですし、数例の実例が挙げられたとしても、そこから傾向など言えません。もし、別に全体的にどうこう言っているのでは無い、との話であれば、じゃあ何故、わざわざ大まかにしか括れないような表現をして、具体例を挙げて個別に批判していく、という事をしないのか、と指摘出来るでしょう。なにしろ、「全体の公衆衛生のために犠牲になってくれている少数の人」を侮辱とまで言っているのであるから。これは、相当に強い批判的表現です。きちんと、具体的にこの人がこのように発言している、と言わないと、「反反ワクチン派」の「医療クラスタに属するのではないか、と考える人からの納得は、到底得られないでしょう。

2021年2月8日追記

改めて書いておきます。私は、そんな発言をした人はいないと主張していません。探していけば、恐らく見つかるでしょう。括りかたが曖昧で大雑把だから、取りようによっては分母がものすごく大きくなる。そこには色々な意見を持つが含まれて行きます。だから、存在はするはず。乱暴な事を言う人もいるでしょう。そういった意見は、個別に批判すれば良い。

私が言っているのは、括って評価出来るようなものかという事です。クラスタも、それ自体が集団を指す言葉なのですから。

理解してもらう気が無い――検診の有効性議論とニセ科学議論

検診周りの議論。

↑このような指摘に対し、菊池さんは、

別に詰めるとかそういう気はなくて、ギャラリーに読んでもらいたいだけですから。「甲状腺検査賛成派の持ち出す理屈はおかしい」ということがギャラリーに伝わればいいんですよ。アガペーな人を論破したって僕にはなんのメリットもないし、論破されないでしょ、無敵だから。いいんですよ

↑こう返しています。指摘なさったかたは、

私は、過剰診断に理解を得られるように、ひとつひとつ論理的に段階を進めていく…と言う意味で言ってるのだけど、

↑と書いておられます。

まず、何らかの信念を強固に形成した人に対し、いくら丁寧に理詰めで説明しても、理解してもらうのは難しい、というのはあります。いわゆるニセ科学の議論でもそうですが、言説なり主張なりを強く信じ込んでいる人を相手に、その信念を解体させるべく説得するのは困難である、とはしばしば言われる所です。信頼関係も築けていない人に、WEB上で説明を試みて考えを覆させるのは、心理的社会的要因を鑑みても、難しい所でしょう。それを念頭に置くのは重要だと、私も思います。尤も、菊池さんはそういう対象をアガペーな人と表現していて、いくらか揶揄的にも見えますが(ニセ科学の議論では、信者などと表現する人もいます)。

しかし、その事を踏まえても、そういう対象の主張に言及したり引用したりして説明するのであれば、段階を踏む事を怠ったり、結論めいた事以外を書かない、つまり、端折るべきでは無いと考えます。

そもそも、ギャラリーに読んでもらいたいだけとの狙いを持ちつつ言及している訳です。であるのに、アガペーな人の言っている事に言及したり引き合いに出して説明しています。

彼(または彼女)に理解してもらおうなんてことは全く考えてません。

↑このように言い、かつ、

そうじゃなくて、ギャラリーに甲状腺検査問題を伝えたいわけです。
と書いている訳です。つまり、

言及や引き合いに出して端折った説明をしつつ、ギャラリーに伝えたい

との動機です。これだと、WEB上の議論であるから結局、

ギャラリーに見えるのは端折った説明

となります。

もし、ギャラリーに伝えたいのなら、ギャラリーに対して丁寧に説明する事を目指せば良いのであって、敢えてアガペーな人の主張を引き合いに出す必要は、どこにも無いでしょう。言及するからには、対象がどのように誤っていて、妥当な考えかたはどういうものであるのかを、しっかりと説明しておくべきです。

甲状腺がん検診の議論で言うと、検診の有効性が最も重要な論点の一つです。議論において、甲状腺がん検診は何故、有効で無いと言えるのかとの疑問が出るのは当然です。そこに対し、エビデンスは無いなどと言って説明を端折って、いったい誰が納得すると言うのでしょう。

ある疾病(がんなど)に対し検診をおこなって、見つけるのが早ければ早いほど良いのではないか、と考えるのは、直観的に正しく思われます。けれど実際にはそうで無かった事が、これまでの検診の研究から解ってきました。では、なぜ正しく無いのか。それをちゃんと説明せずに、エビデンス云々の話をしても、しかたがありません。

まず、ある検診可能(つまり、症状が出る前に発見可能)な疾病について、有効な処置(手術なり)があるとします。それが無ければ、いくら早く見つけた所でしょうが無いので、これは基本の前提です。そして、その処置が有効となるか無効となるかを分ける時点があると考えます。それを、クリティカル・ポイント(臨界時点)と言います。がんであれば、転移などのタイミングが、その時に存在する処置の有効無効を分けると考えられます(がんによって、転移が重大かは変わるでしょう)。

つまり、対象の疾病に検診(無症状で発見)をして、それが有効であるためには、

  • 処置が存在する事
  • 処置の有効無効を分ける時点(クリティカル・ポイント)が無症状の期間にある事
  • 検診でクリティカル・ポイント前に捉えられる事

などの条件が必要となります。もう少し詳しい説明は↓

interdisciplinary.hateblo.jp

検診の有効性議論にあたって、クリティカル・ポイント概念の把握は、理解の分水嶺であると、私は考えています。直観的に、介入(無症状で発見し処置)は早ければ早いほど良いと認識している所で、実はそうで無い事を捉えるのは重要です。言いかたを変えると、検診の議論を知らない人は、クリティカル・ポイントが数え切れないほど存在していると直観している、とも言えます。

実は私自身、検診の議論を勉強している時に、どうしても、介入は早いほど良いとの直観を取り払う事が出来ませんでした。頭の中に、右上がりのグラフ的なものを描いて、それが早く途切れるに越した事は無い、というような図式を描いていたのです。そこに、クリティカル・ポイントの概念を紹介している本を見かけ、なるほどそういう事か、と得心したのです。
ちなみに、クリティカル・ポイントの概念を説明していた本は↓

疫学 -医学的研究と実践のサイエンス-

疫学 -医学的研究と実践のサイエンス-

  • 作者:Leon Gordis
  • 発売日: 2010/06/01
  • メディア: 単行本

クリティカル・ポイントの語、いわゆる疫学の教科書を見ても、ほぼ出てきません。英語で書かれた検診の文献を漁れば幾らか見かける、くらいなので、そもそもそのような概念が設定されている事に気づきにくいのです。ですから、この概念を用いて検診の説明をするもの自体が、そんなにありません。まして、福島の甲状腺がん検診における議論で持ち出すのは、ほぼ見当たらないと言って良いでしょう(おそらく、明確に採用し出したのは私)。参考:日本語のブログでクリティカル・ポイントを説明に使っている少ない例の一つ(薬剤師の青島周一氏による)⇒Blogger版 地域医療の見え方: 病気の早期発見と5年生存率

クリティカル・ポイントは、とても重要でではありますが、それはあくまで、仮想的・概念的なものです。直接観察できるような性質のものではありません。だから、ここまでの説明を見ても、確かにそうかも知れないが……と思われたかたもあるでしょう。また、それがあったとして、じゃあどうやって有効性を調べるか、との疑問も湧くはずです。

検診の有効性は、理想的にはよくデザインされ上手く実行されたRCTによって確かめられます。つまり、

  • 同じような集団を用意
  • いっぽうに検診する
  • いっぽうに検診しない
  • 長期間観察する
  • 対象の病気で死亡する度合いを調べる
  • 死亡する度合いの違いを測る

このようなプロセスを踏み、最後の死亡する度合いの違いを測って、それを検診の有効性の指標として用います。全く同じ集団は用意出来ないので、似たような集団を用意して(各集団に確率的に割り付ける操作によって、それを確保する)、検診する/しない で分けて、対象の病気による死亡という結果の違いを見るのです。もちろん、人間対象の研究なので、

  • ちゃんと似たような集団に分けられる(因果推論の前提)
  • それぞれの集団で、検診を受ける/受けない 事が守られる(アドヒアランス
  • 長期間フォローアップする

上記のような条件が備わる事が重要です。そして、それはとても難しいものです。少し考えても、検診を受けてくださいと言って守られるとは限らない(もちろん、受けないでくださいという集団でも一緒)事は、想像出来るでしょう。また、介入を受ける受けないで分けられるので、どちらかに強い利益か害がある場合に、倫理的問題になってきます(どちらでも臨床研究は中止しなければならない)。ですから、RCTによる検診の研究はあっても、そのRCT自体が方法的に妥当か、といった議論も出てきます(前立腺がん検診の議論など)。

このような、RCTによる検討が、良くデザイン・実施されていれば、強い直接的証拠として採用されます。それが無ければ、時系列的に検診の程度と死亡割合の推移を検討したり、様々な国で同じような傾向があるかを評価する事で、間接的証拠と看做します。

これらを踏まえて、甲状腺がん検診に関しては、

  • RCTによる直接的な証拠は存在しない
  • 時系列的な検討、様々な国での同様な検討によって、有効性は無い(あってもごくわずか)であろうとの強い間接的な証拠――強いは証拠の安定性を指し、間接的は因果関係へ踏み込めるかどうかを指すがある

との知見が得られています。もちろん、これは成人における検診の検討であり(そもそも若年者に対する がん検診をおこなう事はほとんど無いので、データも得にくい)、そこから補外(ある範囲で得られた知見を、他の範囲にまで一般化する)し、若年者にも検診の効果は無いであろう事が示唆されます。

どうでしょう。ここまで読んで、何と長ったらしい、面倒くさい説明がなされていると感ぜられませんでしたか? 実際その通りで、検診の有効性に関する議論は、こういう、長く面倒な説明をしなければ解らないような事を把握しておかなければ、そもそも理解出来ないものなのです。これでも全く足りないくらいです。

検診の有効性議論には、こういった科学的(分野的には専ら疫学的)背景があります。だから、ほんとうに問題を理解してもらうには、それを一々、面倒でも説明し続けなくてはなりません。そこを端折って、ただエビデンスが無いと言うだけでは、納得は得られません。せいぜい、元々知っている人が、まあそうだよね、となるか、何となく甲状腺がんは有効で無いと直観している人の信念を強化する、に過ぎないのではないでしょうか。それは、ギャラリーに甲状腺検査問題を伝えたいという目的には程遠いと考えます――伝えるが、問題の持つ論理構造を正確に把握してもらう、のを意味するのならば。

先にも書きましたが、いくら言っても理解してくれないであろう人の主張を引き合いに出して説明するのであっても、そこで詳細や段階を端折れば、ギャラリーに対しても説明を端折るのだから、アガペーな人がどうこうも、関係無くなるでしょう。いったいそれで、誰の(きちんと理解した上での)納得を得られると言うのでしょうか。

説明を諦める場合があるのは解ります。これはどう言ったって理解されるのは難しいだろうな……となるのは私にもあります。けれど、言及して説明するからには丁寧にやるべきでしょう(説明の際の言葉遣い等はまた別問題ですが)。それに、検診の議論の中でも、色々の見かたはあるので、相容れない立場の人からの指摘の中に、あれ、ここはどう考えるべきか……とか、そういえばこの部分についての知見はどういうものがあったっけ……となる場合はあります。私はそういうのを見つけると、教科書や論文を調べて、知見を補充したり説明に付け加えたりします。そういう意味で、異なる主張を持つ人の発言からも、勉強する事がよくあります。この視点は足りなかったな、と未だになりますし(はてなブックマークや、このブログで記録しています)。他のギャラリーにも同じように思う人はいるはずで、そう思うギャラリーがいる中で、有効性を示すエビデンスは無い、とただ言った所で、理解は得られないでしょう。

加えて言えば、菊池さんは、がん検診の有効性の議論を、詳細に説明する事がありません。有効性とはなにで、どんな指標を用い、どのような研究デザインでもって評価するのか、などの解説もしません。福島の甲状腺がん検診については、過剰診断の害を強調するばかりです。検診の実施の是非は、効果と害のバランスによって決めるべきで、本質的に、効果(厳密には有効性や効果、効能は別概念ですから、分けたほうが良い場合があります)の議論が最も重要です。何故なら、検診に害があっても、効果もあれば実施は正当化され得るからです。いずれも程度の問題であって、それをきちんと検討しなければなりません。

私は、ニセ科学の議論の時から、

  • いくら懇切丁寧に説明しても、理解されるとは限らない
  • 理解されるのが難しそうな相手でも、説明を工夫する事で解ってもらえるかも知れない

この両方を踏まえておくべきだと考えてきましたし、今もそう思っています。同じ話題について、少しずつ説明のアプローチを変えて書いたり、分量を減らしたり増やしたり、リストでまとめたり、色々なやりかたをしておいて良いでしょう。けれど、エビデンスは無いみたいに端折るべきではありません。エビデンスの語も、ちゃんと理解されにくいものですからね。適当に出したら、じゃあエビデンスって何だ、のように返されるでしょう(返すのは尤もです)。それに対してはきちんと説明出来るべきだし、(くどいと思われようが)一緒に説明しておくべきでしょう。