大村平さんのはなし

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数学や品質管理、信頼性工学などに関する普及書を多数執筆なさった大村平さんが、逝去されたそうです。

中学生・高校生の時分、私は数学がとても嫌いでした。典型的な嫌いかたと言いますか、こんな事をやって何になるのだ、と思っていたのです。学校教育に対する先入観や反発が先にあって、習う事ことごとくを嫌ったのかも知れません。

高校を卒業してからしばらく経った頃です。私には強く知りたいという事が出来ました。そして、それに関連する本を読んでいると、科学や数学に関する用語がいくつも出ていたのです。読みながら、自分は科学や数学の知識についても知る必要があるのではないか、と思い始めました。けれど、学生の時にまともに勉強してきていません。周りに詳しい人もいなかったのです。今のようにインターネットが広く普及していた訳でもありませんでした。勉強するにしてもどう手を付けて良いのか、その手がかりがありません。

そんな折り、地元の大き目の書店をぶらぶらしていた私は、1つの書棚の前に立ち止まりました。工学関連の本が並べてある書棚です。どうしてそうしたのかは、はっきりとは憶えていませんが、数学の本で何か良いのは無いか、のように考えながら歩いていたのかも知れません。ともかく、そこで目に入ったのが、大村さんの書いた、はなしシリーズだったのです。

どうしてそのシリーズを手に取ったのかも憶えていません。数学の本で、とてもシンプルなタイトルですから、何となく、初心者向けという事が解ったのかも知れません。ともかく、そうして手に取ってパラパラと読んでみたのですが、これが実に面白い本だったのです。

大村さんの本は、とにかく身近の現象に結び付けて数学の考えかたを説明するのが特徴です。まさにそこが、数学など何の役に立つのかと思い込んでいた私に、数学がどう役立つのかを見せつけてくれたのです。私は物事を考える時に、実際の現象と関連付けグラフィカルに想像を展開させないと理解出来たと思えない人間なのですが、大村さんの本は、それが出来るように書かれていました。

それ以来、大村さんの本を何冊も買って勉強しました。確率や統計に興味が出てきた際にも助けられました。例がとにかく具体的で、時に冗談もさしはさみながら、軽妙かつ丁寧に数学の知識と考えかたが説明されます。文章は極めて明瞭で、深い見識と幅広い経験に裏打ちされたものだと感ぜられました。
解りやすいと言っても、図を多用して説明する類の本ではありません。そうでは無く、日常的で身近の物事でたとえて明瞭な文章で丁寧に説明する事で、読み手にイメージを展開させていく、という所が実に巧みだったのです。その意味では、さらっと短時間で読めるようなものでは無く、じっくり味わいながら、行きつ戻りつして読み進める本だと言えます。決して、簡単な本ではありません。

影響を受けた、と書くと軽々しく響くかも知れませんが、私は本当に、大村さんの本に影響を受けました。特に、物事を説明する際にはとにかく具体的な例を出して、段階を踏んでイメージを浮かび上がらせるようにする、という所で、自分が文章を書く時にもそれを心がけています。もちろん、全く足元にも及びませんが、いつか大村さんのような文章が書けたらな、と目指している所です。

大村さんの本は、いわゆるベストセラーの類、つまり、1年に何百万部も売れて世間で話題になる、というものではありません。けれど、出版されてから数十年も読まれ続ける超ロングセラーです。手許にある『行列とベクトルのはなし』を見てみると、1978年が第1刷で2006年が23刷とありますし、シリーズは今も改訂され出版され続けています。ベストセラーのように爆発的に読まれるのでは無くても、長い間かけて沢山の人びとに読まれ、数学の知識を広く普及しています。偉大です。

色々な理由や経緯があり私は、科学という方法に興味を持ち、今も勉強しています。若い頃に何からどう勉強して良いか解らず悶々としていた所、何の偶然か、大村さんの本に出会いました。それは道標であり光明でした。大袈裟では無く、知的な方面での道を案内されたという意味で、救われたのだと思っています。その道中で、科学とは言えないようなものに傾きもしましたが、何とか留まる事が出来ました。自然現象に関わらず、人文的社会的な物事についても定量的・計量的に考えるのを重視するのも、大村さんによる、数量化の方法の説明を読んでいたからだと思います。はなしシリーズは日科技連出版社から出版されており、日科技連は日本科学技術連盟の略称ですから、工学系の色が濃く現れています。それもあって、工業製品の製造や評価に関わる品質管理や信頼性工学、好き嫌いを尺度化して要因の影響を確かめる方法などが説明に用いられています。まさに人間の心理や社会的要因を考えざるを得ない分野であり、それが、広く学際的に物事を見る目を養ってくれました(別のかたの影響もあります)。その見かたは、このブログのタイトルにも反映させています。

何だか取り留めの無い文章になりました。書きながら、大村さんの本に出会っていなかったらどうだっただろうか、と想像しています。今のように勉強をする道を進んだろうか、科学や工学の考えに目を向けたか。もしかしたら、数学になど欠片も興味を持たない人生を歩んでいたかも知れませんし、科学なんて、と馬鹿にし続けていたかも知れません。あるいは、科学に興味は持っても、数学の部分だけ全部飛ばして表面だけ解った気になっていたでしょう。実際、大村さんの本を読んだ後でも、そうなってしまっていた時期はあったのです。こうやって考えると、きっかけというのは些細な事だけれど、それが導く道筋は、大きく違ってくるのだと思わずにはいられません。

大村さんには、私をこのような道に案内してくださってありがとう、と申し上げたいです。

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最後に。

私は、数学の普及書として、大村さんによるシリーズを読む事を勧めています。その解りやすさと文の明瞭さは群を抜いており、現在でもそれは、色褪せる事の無いものだと考えています。『統計のはなし』など、ブログでも何回も紹介してきましたし、これからも勧めて行きます。
しかし、大村さんの本は、現代的な観点、ジェンダーや差別的の観点から不適切な記述も散見されます。それは、ちょっとした言い回しに留まらず、例示そのものに絡めて書かれてもいます。いわゆる差別語的な表現に関しては、時代的・世代的な情況も鑑みる必要があるとは思いますが、それを差し引いても許容されないであろう記述はあります。改訂によって削られたり修正された箇所もありますが、読む際には、この辺りにお気をつけください。もちろん、書評を参照し、本は読まないという選択もあります。

本を紹介する以上、この点については触れない訳にはいかないと思い、ここに記す次第です。

福島の甲状腺がん検診の行方──『福島の甲状腺検査と過剰診断 子どもたちのために何ができるか』を読んで

読みました。

タイトルから解るように、福島でおこなわれている甲状腺がん検診の現状について、発見されている甲状腺がん過剰診断である事を指摘し、検診の見直しを提言する論調の本です。

第4章、第5章が参考になりました。実際に福島の検診に携わっていた緑川・大津留の両氏によって、現場の様子や事業としての検査体制のあらましと変化などについて書かれています。ある種の内部批判にもなっており、当事者としてこのような文章を書くのは勇気が要ったろうと思います(書かれた経緯は、下にリンクを張るあとがきで説明してあります)。
もちろん、こういう、いわゆる述懐も含む文は、忘却や記憶の再構成、あるいは後から振り返る事による評価が入ってくるので、その分は差し引いておく必要はあると思います。

全体の記述で気になったのは、

  • なぜ発見した甲状腺がんの内、大部分が過剰診断と言えるのか
  • がん検診の有効性評価

これらに関する説明が、かなり手薄である所です。前者については、第1章から第3章までの病理学的説明が主です。本来、過剰診断の程度というのは、疫学的な推測(観察データを統計的に検討する)によって慎重におこなうべきものですが、それほどありません。後者に至っては、甲状腺がん検診に効果(死亡率減少)が無いという記述はあっても、有効性評価の具体的説明(どのようにして効果を測るのか)は皆無です。

がん検診の是非というのは、まず効果があるかどうかを評価し、発生する害と比較して検討するものです。ですから、がん検診の実際に不案内な人に対して、有効性評価の説明は必須であると言えます。しかるに、それはなされていません。過剰診断の程度については疫学的の検討が重要と書きましたが、本書では、筆者の高野氏(高→はしごだか)は、持説も含めた病理学的説明を中心にしています。そして事実上、福島の甲状腺がん検診で見つかった甲状腺がんが、

全て過剰診断である

と取れる表現をしています(あとがきより引用)↓

。そして、福島の子どもたちに起こっているのは間違いなく過剰診断であり、それ以外である可能性はありません。

これは、かなり不用意な記述と言えます。大部分が過剰診断であると考える事自体は荒唐無稽では無いですが(色々の仮定を設ければ)、現状の知見から、全てが過剰診断であると断定的に表現するのは言い過ぎでしょう。高野氏は上記引用部の直前に、

そして、年月がたって明らかになってくる事実は必ず本書に書いてある通りの様相を呈してくるであろうと断言しておきます。逆に言うと、そのような自信がないことは書いておりません。

↑このようにも書いていますが、書き手の自信の問題ではありません(断定的表現が意図的である理由も、あとがきに記されています)。

この本のターゲットは、検診の知識に不案内な人、実際に福島に居住していて検診を受けたり受けさせたりする人、がメインだと思いますが、そういう人に対して解りやすい記述になっているかと言えば、そうは思えません。たとえば、疫学の語が何回か出てきても、疫学がどういう分野で何をするものなのかは、ほとんど説明されていません。
また、検査を司る組織やマスメディア、あるいは、放射線被曝の影響を懸念する論者に対する批判的論調が、強く出る所もあります(批判自体は悪い事ではありません)。それが読者にどのように響くかは、もう少し考えられても良かったように思います。

検診の害を強調したいあまり、定量的な評価が蔑ろにされている面があります。たとえば自殺のリスク。検診において自殺のリスクは確かに懸念すべき所ですが、害の大きさを考える場合には、その頻度をきちんと見出す必要があり、それは慎重になされねばなりません。がんと診断される事による心理的害(悲観的なラベリング効果)の検討は簡単ではありません。まして、福島でもそれが起こるのか(起こったのか)を言うのは、極めてデリケートな問題です(ラベリング効果については⇒医療における《ラベリング効果》 - Interdisciplinary 研究にもリンクを張ってあります)。

全体的に見て、過剰診断の強調と検診の無意味さを主張する事に、押し付けがましさを感ずる人もいるでしょう。もちろん、甲状腺がん検診の有効性の小ささと害について憂慮し、若年者を慮って本が編まれたという所には、理解も共感もします(私自身が、福島の甲状腺がん検診を中止すべきであるという立場なので)が、もし、検診の仕組みや有効性評価、過剰診断の意味や検討のしかたなどの中身をよく知ってもらい、その上で読み手に判断してもらうのを企図したのであれば、書きかたにもうひと工夫あって良かったのではないでしょうか。

リンク:

福島の甲状腺検査と過剰診断 子どもたちのために何ができるかakebishobo.com

↑本書の紹介と目次

【PDF】あとがき

↑あとがき。高野徹氏による。先に引用した所の段落全体を、改めて引用しておきます。

私の担当した第1~3章ですが、従来の本にあるような、「こんな可能性もあるよ、あんな可能性もあるよ」という書き方はやめました。例えば、「若年者の甲状腺がんの早期診断は有害」とか「甲状腺がんは悪性化しない」とかいう話は、外国ではともかく国内の学会で出したら相当な反発を受けるでしょう。しかしこと福島の甲状腺検査に関する限り、専門家たちが科学的な確からしさよりも自分たちの立ち位置を優先したポジショントークを繰り返したことが混乱を招いてしまったのです。これらの章では、現時点で最も確からしい解釈しか書いてありません。

そして、年月がたって明らかになってくる事実は必ず本書に書いてある通りの様相を呈してくるであろうと断言しておきます。逆に言うと、そのような自信がないことは書いておりません。そして、福島の子どもたちに起こっているのは間違いなく過剰診断であり、それ以外である可能性はありません。

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ここから、少し突っ込んだ内容。

通常、余剰発見の程度というものは、RCTで発生割合を比較したり、時系列的変化を観察したりして検討するものですが、若年者においてそういう研究に乏しいので、見積もりが難しいという面があります。

本書では、

  • 成人での観察研究から補外(外挿・一般化)
  • これまでの福島の状況からの推測
  • 最近の病理学的知見の当てはめ

がおこなわれています。それ自体は真っ当ですが、そこから、あとがきに書かれているような主張が出来るか、して良いのか、が問題です。特に、高野氏の病理学的説明は、注目すべきものではあるでしょうが(コントラバーシャルと言って良いか判りませんけれど)、それを強く主張して疫学的帰結まで踏み込んで論ずるものでは無いでしょう。よく間違いなく過剰診断であり、それ以外である可能性はありません。なんて記述をそのまま載せたものだ、と思いました。