ゲームの特徴とその応用の可能性

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 質問者さんの意図に従い、個人的に感ずる違いを書きます。関連する学問領域、たとえばゲームにまつわる学問や学習科学などで既に様々な研究がなされているとは思いますが、必ずしもそれは踏まえずに書く事を、予めお断りしておきます。※主に「勉強」を対象にします

○時間が規定されているかいないか
 仕事にしろ学校の勉強(あるいは宿題)にしろ、「何時から何時までやらなければならない」、「何時間やらなければならない」といったような、時間的な拘束があるように思います。対してゲームは、開発に携わる人やプロゲーマーを除き、通常はそのような制限は無い、もしくは緩いと考えられます。言わば、「やりたい時にやる(出来る)」と「やらされる(やらなくてはならない)」の違い、といった所でしょうか。

○目標が分かりやすいかたちで示されている。動機づけの巧みさ
 時間的な制限や拘束があったとしても、ある目的に向かって夢中になっていれば、楽しさを感じられるものです。ゲームでは、程良いタイミングで達成するべき目標や課題が分かりやすく示され、それを解くあるいは解くためにスキルを上達させたい、という目的意識が生まれますが、それを上手く学校勉強等に組み込めるかがポイントだと思います。ただこれは、上の時間的制限と密接に関わるもので、あまりにも制限がきつければ、いかに面白そうな課題でも、楽しめなくなるかも知れません。

(上に関連して)
 もちろん、仕事でも勉強でも課題はある訳ですが、恐らく重要な点は、「その課題を達成させたい」という動機づけ及び、「その課題を達成するために必要な下位の課題を達成する」事の認識、だろうと考えます。しばしば、「この勉強が何の役に立つのか解らない」という学生の嘆きを見聞きしますが、ゲームをやるのも、「役に立つ訳では無い」点では、認識としては同様です。しかしゲームは楽しいし、夢中になってやってしまう。この違いに関わるポイントの一つとしては、「課題それ自体を解きたい」と思わせる動機づけ、があるでしょう。ゲームではたとえば、

 中ボスを倒したい→スキルや魔法を覚えなくてはならない→経験値をためてレベルを上げなくてはならない→敵を沢山倒さねばならない
    (並行して)→戦略を練ってより効率的に戦いを進めなくてはならない→敵と自分のキャラのパラメータや攻撃パタンを把握してダメージ等の計算をしなくてはならない

 こういった課題の連鎖がありますが、これは、中ボスを倒す、という課題を達成するために下位の課題をこなす、という構造です。また、中ボスを倒すという目標も、ストーリーを進めたい、あるいはキャラクターに特別の感情を持っていてそれを満足させたい、などの別の課題と連関しているとも考えられるでしょう。もちろん、「その課題自体が」面白い事も有り得ます。

 翻って、勉強の話ですが、学校勉強の場合には、課題を与えられても、その課題を達成させたいという目的意識が無いために、下位の課題もやる気がおきない、つまり「面白く無い」と感じるのだと思います。実際には「受験に受かる」や「将来のいつか役に立つ”かも知れない”」というのが上位目標に設定される事もあるし、勉強を促す際にそれが持ち出されるのもよく見聞きしますが、これは、あまりにも時間的に先の目標であり、しかもそれ自体に魅力を感じさせないものであるのがしばしばです。
 ゲームの場合は、ある種のパッケージであり、(オンラインゲーム等を除くと)長くとも数十時間で完結させられる事が判っていて、フィクションのストーリーに参加するという面白さもあります。目標が見えやすい訳ですね。変な言い方ですが、やっている事が、「ストーリーの中では役立つ」のがはっきり判っていると。という事は当然、ストーリーやキャラクターの設定に魅力が無くてはならない、のを意味しますが。

 学習科学などでも、こういった「課題の抽象性」のような部分については考えられているようで、たとえば、数章のストーリーがあり、その中でキャラクターに立ちはだかる課題を解かせるという形式で学習させるという、「The Jasper Project」などの試みがあるそうです。学習のゲーム化あるいはストーリー化、とも言えるかも知れません。実際に「シリアスゲーム」の開発もよく行われています。

○共同で解いたり進めたりする楽しさ
 パーティプレイが出来るゲームに拘らず、一人用のRPGなどであっても、同じゲームをやっている人の間で、解き方を教え合ったりキャラクターやストーリーについて話したりするのは大変楽しいですね。オンラインゲームでパーティを組んで目標を達成するのは言わずもがなです。個人的な観察範囲内で言えば、学校の勉強では、ある問題を解くために話し合う、というのはまずありませんでした。あっても、テスト前の勉強を皆でやる、という、一過性かつ消極的なもの。その意味で、コミュニケーションのツールとしては全く埒外であった、と言いましょうか。
 それには様々な理由が考えられます。上に書いた、課題としての抽象性もそうですし(解きたいと思わなければ、他者と共有する事も無い)、他にもたとえば、「そもそも勉強は皆で一緒に楽しく解いていくものでは無い」等の、ある種の「教育」があった、という可能性もあります。もちろん可能性なので、実際がどうであるかは別ですが。

○キャラやストーリーへの思い入れ
 これも目的意識に関わりますが、キャラクターが好きになる、ストーリーの先が気になる、等の要素は大きいように思います。それによって、「多少はつまらない課題もある程度我慢して出来る」場合があると。ゲームの場合、多くは課題がストーリーの上に配列されている訳ですが、より先に進みたい、キャラがどう成長していくか見届けたい、キャラ同士の関係の変化を楽しみたい、等の感情を惹起する構造になっている。勉強だとなかなかそうは行かないですね。現実をストーリーに見立てて自身をその中のキャラと位置づける、といった事はあり得るかも知れませんが、それはスケールが大きく具体性に欠くし、そのスケールと、目の前にある課題との繋がりが見えない、のもあるでしょう。

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 ここまで、ゲームと勉強との違いを見ましたが、恐らくこれらの要素が複雑に絡みあっているのだろうと思います。
 たとえば、勉強であれば、数学の問題をストーリー上に布置し、「解けなければ先に進めない」ような構造とし、ストーリーやキャラクターを魅力あるものと設定する、などが考えられます。レイトン教授シリーズなどは、そこら辺が巧みに出来ていましたね。ただ単にパズルや問題を解け、と言われても面倒かも知れないが、それをフィクションに絡める事で、上手く動機づけを行う、そういうものになっている、と。それをどこまで学校の現場に取り入れるか、は難しい問題ですが、余暇の時間に楽しむなどを考える事は出来ます。※敢えて作為的にゲーム(エンターテイメント)と勉強を絡ませるのは……といった批判的な見方は別にあるとして

 また、「共同で解かせる」事を積極的に奨励する。現場では既に工夫が試みられているでしょうが、もっと広く、一般的に、勉強がパズル解きであるかのように認識する。グループ単位で競わせるのも良いかも知れませんね。

 学習をトップダウン的に行わせるのも良いかも知れません。たとえば、「これを勉強すればあれが出来るようになる」、と言う前に(あるいは並行して)、何か興味のあるものを示して、「それの仕組みはどうなっているか」と考えさせる。身のまわりの工業製品であれば、いわゆる学校の勉強で習うような事の粋なので、大概はそこに繋がってきます。具体物をイメージさせた方が解りやすい事もあるでしょう。

 こういう事を様々考えていくのも、ある意味ゲーム的ですね。

今まで参考になった本など

学習科学とテクノロジ (放送大学教材)

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教育心理学通論―人間の本性と教育 (放送大学教材)

教育心理学通論―人間の本性と教育 (放送大学教材)

親子ではじめる理科まるごと音読帳 (お母さん、もっとおしえて!シリーズ)

親子ではじめる理科まるごと音読帳 (お母さん、もっとおしえて!シリーズ)

レイトン教授と不思議な町 フレンドリー版

レイトン教授と不思議な町 フレンドリー版

馬場章氏の研究:http://chi.iii.u-tokyo.ac.jp/