post hoc ergo propter hoc

 ここに挙げた理由は、どのような現象を説明する場合でも、他の説明が存在しないか考えることの重要性に注意を喚起している。病気の多様な性質、プラシーボ効果、それに見逃された原因といったことも含め、他の説明の可能性を考えないことは、誤った原因の虚偽という危険を犯していることになる。よく起こる誤認としては、二つの出来事に実際には原因と結果の関係がないのに、そこに因果関係があると信じてしまうことである。典型的なパターンでは、ある一つの出来事が、別の一つの出来事に続いて起きたから、それは前者が原因となって生じたとみなしてしまうことだ。この誤認は、ラテン語でポスト・ホック・エルゴ・プロプター・ホック(この後に起きたということは、すなわち、これゆえに起きたということ)と呼ばれている。他にいくつも可能性が考えられるにもかかわらず、雄鶏が鳴いたから太陽が昇ったとか、傘を持って行ったから雨が降らなかったとか、この治療を受けたから病気が治ったとか結論づけるとき、誤った原因の虚偽に陥っているのだ。
 また、もう一つ重要なことは、ある一人の個人的体験が、その治療の有効性を証明する信頼できる根拠となり得ないなら、多くの人の同様の個人的体験があっても同じだと認識することだ。もし一人が誤った原因を誤信し得るなら、百人がそうすることも可能である。もし一つの証拠が無効であったり信頼できなかったりするなら、そのような証拠が百集まったからといって、何かの確固とした証拠になることはない。代替療法の施術者やそのユーザーによって、いくらたくさんの証言が集まったとしても、通常は、それはたいして何も証明していない。ただ、ある人たちがある治療についておそらく強い信念を抱いているらしいことを示すのみである(消費者運動家の中には、多くの証言がでっちあげであることを指摘する者もいる)。
クリティカルシンキング 不思議現象篇』(P203) ※強調は原文ママ

ある人は、長年の苦しみに悩まされている。それまでに色々の診断を受け、治療も試したが、一向に改善しない。
そんなある日、友人に勧められ、同様の症状に効くとされる薬を購入し、飲んだ。すると、それまで心身にこびりついていた症状が、まるで嘘のように消失したのである。

・・・これは架空の例であるが、同様の「体験談」は、枚挙にいとまがない。実際、このような経験は強烈なインパクトを人に与えるのだろう。友人に貰った薬「が」効果を発揮した、つまりその薬と症状の消失に因果関係があった、と認知するのも、ある意味で仕方ない部分があるのかも知れない。色々の認知的バイアス、あるいはヒューリスティクスが働いて、「因果関係の早合点」が起きるのだろう。

しかし、それだけでは因果関係があるとは言えない。上記引用文にあるように、他の様々な可能性が考慮されるべきからだ。その薬「そのもの」が効かなくとも、効くのであろうと信ずる認知、友人への信頼感、等々・・・いわゆるプラセボ効果ホーソン効果など。あるいはそういう「時期」であったのかも知れない。つまり、自然経過による治癒、あるいは一時的なものである可能性。本来、それらの可能性を排除して初めて、使った薬が効いたのだ、とある程度の確信をもって言えるのである。
雄鶏が鳴いたから太陽が・・・などの例は、恐らくそれに因果関係を見出す人は、それほどいないであろう。というのも、そもそも星の運行についての基礎的な部分は学校教育で習うし、また、そのようなスケールの自然現象が雄鶏の行動ごときでコントロールされるものではない、というのも知識として身につけるのだろうと思われるからである。

対して、薬を使った、などの体験は、あくまで個人にそれが効いたかどうか、という文脈である。人体の構造の複雑さ、個人差、などについては、直感的にしろ既有知識からの類推にしろ、分かるのだろう。であるから、薬が自分に効いた、というユニークな現象に懐疑的になりにくいのかも知れない。

当然、本来ならば、薬剤の効果に関しては、臨床試験等の方法によって確かめなければならない。そこでは、実験群(たとえば薬を与える群)に対し、比較のための対照群(たとえば、効かないと分かり切っている物を効くと称して被験者に与える群)を用意し、調べたい条件以外をなるだけ揃え(統制)、被験者の属性が偏らずに誤差を数学的に処理出来るよう、無作為割付という操作が施される。その上で時間的変化、実験群と対照群との差の大きさなどを測り、「効くか否か」が判断される訳だ。

このようにして、よく条件を操作した情況できちんと実験なりを行ってこそ、個人的体験による直感では判断出来ない因果関係についてものが言えるのである。