武術をスポーツ心理学的に記述してみよう☆☆

昨日の続き。前回と同じく、
※今回参考にした文献は、

  1. 培風館[刊] 中込四郎・山本裕二・伊藤豊彦[共著] 『スポーツ心理学』
  2. 大修館書店[刊] 日本スポーツ心理学会[編] 『最新 スポーツ心理学 その軌跡と展望』

本文中で丸括弧数字は、

  • (1):『スポーツ心理学』
  • (2):『最新 スポーツ心理学 その軌跡と展望』

よりの引用、「P」は引用元ページ数を示す。

○身体情報の知覚

▼身体意識
武術に関心のある方は、「身体意識」と見聞きしたら、「うーん、どっかで見たことあるなあ。」とか、「あー、高岡英夫のあれね。」と思う人もいるかも知れない。ここでは、心理学的にそれがどういう概念か、を紹介する。加えて、高岡英夫氏によって定義された「身体意識:体性感覚的意識」との関係も見ていく。

身体意識:身体情報の意識的知覚
((2)P149)

自分の身体の位置や動きの意識的な知覚。これを身体意識(body awareness)と呼ぶ。
伝統的には、筋や関節などの深部組織からの感覚情報(固有受容感覚(proprioception))が注目されてきたが、そのアプローチでは不十分であることが、最近の研究で分かってきたという。つまり、身体意識に関係するのは多様な感覚情報だということだ。

身体意識の定義にも色々あるようだが、

  1. 身体部位の実在感(”腕がある”といった漠然とした意識体験)
  2. 身体部位の位置や動きに関する意識体験(筋運動感覚,kinethesia)
  3. 痛みや温熱感といった身体表面の刺激によって得られる意識体験

多くの研究ではこれらに言及されているらしい(リストは(2)P149より)。
どれも、日常的に感じられ、言及されているもの。だから、それ自体が特に何か専門家特有のものであるという訳でもない。前回、内在フィードバックについて紹介したが、たとえば日常でも、肩が重い感じがするから回してみるとか、そういった場面は頻繁にある。そういった局面でも身体意識、つまり「身体意識の意識的知覚」というものが働いているということだ。

さて、ここまでは心理学的な一般的概念の紹介だが、今はスポーツ心理学の話だ。まず関連する所を((2)P149)から引いてみよう。

この中で,特に筋運動感覚の問題はスポーツ競技者にとっても密接なトピックといえる。競技者はしばしばウォーミングアップ時の動きの状態を敏感に感じ取って,コンディションの把握や動きの微調整に利用している。トップアスリートの場合,一般人には必ずしも理解できない形容方法で身体の状態を言語化するなど,筋運動感覚に対して鋭敏であるように思われる。

スポーツでは、それぞれの競技構造に従って、合目的的に運動を最適化する必要がある。単にルールを覚えて楽しむくらいならそれほどではないが、チャンピオンスポーツのトップクラスなどでは、高度に精密な運動が要求されるので、運動を制御する際に重要な情報である筋感覚的情報をより精確に取り入れてフィードバックする必要がある。日常生活を営む程度では要らないような内在フィードバックを行わなければならないということ。常に自身の内界情報をモニタしている訳だね。ただ、アスリートは必ずしも解剖学的知識を持っているとは限らないから、その身体意識を言語的に報告する場合には、引用部にあるように、他の人にはよく理解出来ないような表現を用いることがある。その実態は恐らく、多種の感覚情報が統合された知覚なのだろう。それは必ずしも言語的な表現とは馴染まない。内的な情報のため目に見えず、明確に形状等が意識出来るとは限らないから、外界の存在で喩えたり、擬音を用いたりする。
これは推論だけれども(だが同様の指摘は結構ある)、恐らく長嶋茂雄氏などは、そういった部分の直感力に優れている(が自覚的・分析的 ではない)のだと考えられる。あの擬音語の多用なんかは、ある統合的な身体意識が上手く実現出来たものをなんとか表現しようとしたものなんだろうね。

さて、ここからは、「身体意識を生起させる諸要因」((2)P149)について見ていく。身体運動やヒトの認知について関心を持つ方は、大変興味深く感ずると思われる、「ピノキオの鼻」の実験について紹介。

▼筋紡錘
筋運動感覚には、筋紡錘や腱紡錘、また、皮膚表面の触覚受容器が関わっており、中でも筋紡錘についてはよく調べられているようだ。筋紡錘という器官に関しての説明は、解剖学や生理学の教科書をよろしく。

筋紡錘は、筋長や筋の伸張速度を検知する器官。動物は筋収縮によって運動する訳だから、筋の状態は身体運動するにあたって重要な情報。だからそれを検知する器官として筋紡錘があるということだね。
で、筋紡錘が筋運動感覚の身体意識に貢献していることが、Goodwin et al. の実験で示されたらしい。以下、((2)P150)を元にして実験の手順を説明。

  • 実験課題:閉眼で、一方の肘(ターゲット)の屈曲角度をもう一方の屈曲角度で示す
  • ターゲットの腕の上腕二頭筋に100Hzの振動刺激を与える(加振)
  • →加振により、肘関節が徐々に屈曲する(筋紡錘は振動刺激に対して高い応答を示すから)。これを「緊張性振動反射:TVR」という
  • 被験者は、肘が約10度屈曲した時点で動きを知覚。10度の誤差を保ったまま動きを追尾出来た

つまり、上腕二頭筋の筋紡錘への振動刺激が肘の屈曲を起こし、ある程度屈曲されてから被験者は気づいた、ということ。次に、

  • ターゲットの知事が40度屈曲した時点で、ブロック(それ以上屈曲出来ないように)する

という操作が加えられた。
途中でブロックされるのだから、当然、肘関節はそこで静止する。で、その結果なのだけど、とても興味深いことに、「肘が伸展したという動きの錯覚」((2)P150)が起きるという。つまり、客観的な身体運動としては、肘関節は一定の角度のまま(つまり静止している)なのに、身体意識としては、「肘が伸びているように」感ずる、ということ。さらに別の実験によれば、その錯覚が起きている時に実際に肘関節を伸展させると、「関節可動域を超えた位置まで伸展したと錯覚」((2)P150)することが判明したらしい。つまり、身体意識は、身体そのものの運動がそのまま反映されている訳ではないということ。
錯覚と言えば、視覚的な錯覚はよく紹介される。たとえば、有名な北岡氏による錯視のページ⇒http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/
などがあるし、実感としてもよく分かりやすい。で、同じようなことが身体意識についても起こるということ。劇的な例では、幻肢などがあるね。四肢を失った人が、その四肢があるかのごとく実感する、という現象。

▼四肢の身体意識と身体全体の固有受容感覚((2)P151)
今紹介した実験は、筋紡錘への振動刺激が、実際には起こっていない関節運動の身体意識を呈するのを示したものだけど、次に紹介するのは、この応用例のようなもので、実に面白い実験。それは「ピノキオ錯覚」と呼ばれる現象。

上述の実験は、上腕二頭筋に加振し、屈曲した所をブロックしてその時の身体意識を調べるというものだったが、Lacknerの実験では、
「鼻をつまんだ腕の上腕二頭筋を加振」する
とどうなるかを調べた。これは面白い実験。というのも、先述の実験を踏まえれば、
「鼻をつまむということは肘の屈曲がブロックされている」
のだから、
「肘が伸展すると錯覚」
すると予想されるが、被験者は鼻をつまんでいて、同時に
「腕が動かないことを分かっている」
という状況でもあるからだ。これは知識として知っていることだけど、先のGoodwinらの実験によれば、筋紡錘への加振で生起された肘関節屈曲をブロックされた際には「肘関節の伸展」という身体意識が呈された訳だ。さて、結果はどうなるか・・・
勘の良い人は分かる、というか、既に現象の名前を紹介しているのだから丸わかりかも知れないけどw 結果は、

驚くべきことに,実験参加者の多くは自分の鼻がピノキオのように伸びたと錯覚することがわかった
((2)P151)

こうなったそうだ。これは本当に面白い。被験者は当然、自分の鼻が伸びないということは知っていた(それが認知出来ないような被験者ではなかったらしい)。それなのに、鼻が伸びたという錯覚が起きた。Lacknerは他に、

  • 頭上に手を置いた状態で上腕二頭筋を加振→首や頭部が伸びると錯覚
  • 鼻をつまんだ状態で上腕三頭筋(肘関節伸展筋)を加振→「鼻が顔の中に埋もれていく」と錯覚

これらを明らかにしたという。この章の著者の樋口によれば、これは自然なこととして解釈出来るという。引用してみよう((2)P151)。

 なぜ鼻が伸びたと錯覚するのだろうか。実はこの実験条件下で全身に生起される感覚情報を総合的に考えると,鼻が伸びたという意識体験はとても自然なことのようにも思えてくる。まず,上腕二頭筋への加振および鼻をつまむことによる肘関節の屈曲のブロックにより,肘が伸展したと錯覚する。また鼻をつまむことによって指先に生じる触覚情報から,指先が鼻先から動いてないことがわかる。さらに頭部全体の動きがないことが首の固有受容感覚情報などにより明らかである。これらすべての感覚情報が同時に矛盾なく生起するためには,鼻が物理的に伸びたという解釈が論理的に考えて最も自然なものとなる。

つまり、様々の感覚情報、及び既有の知識等を総合して、最も論理的にあり得そうな身体意識と認知が選択されるということなのだろう。もちろん、「鼻は伸びないと知っている」にも拘らず、何故他の情報が優先され、鼻が伸びるという錯覚が呈されるのか、そういった重み付けはどうして起こるのかといったことも考えられる。これには様々な心理学的・神経科学的なメカニズムが関わっているのだろうね。
樋口も指摘しているが、この実験は、身体意識は、実に様々の感覚情報を統合した結果として生起する、身体部分の位置や姿勢等の状況にも依存するものだというのを示唆していると言える。

さて、武術の話。
ここまで、スポーツ心理学の実験が、身体意識と実際の運動とは必ずしもそのまま対応はしないのを明らかにしてきたことを見てきた。振動刺激が「鼻が伸びる」という錯覚を生起するという現象は、実に劇的なものだ。
武術に関心を持つ人は当然知っていると思うけど、武術の技法でも、動きを錯覚させる色々な技や教えなどの概念がある。黒田鉄山氏の「消える動き」などもそうだね。ただ、それは固有感覚によって起こるというのはちょっと違うので、ここでは「合気」で考えてみる。
合気というのは、腕などを強く敵に捕られた状態から脱するための技法。力学的には圧倒的に不利な情況を打破するために洗練された技法が、「合気」と概念化された訳だ。もちろん他の柔術などでも同様のものはあるだろうけど、合気はメディアでもよく紹介されるので、象徴的と言える。
上述のピノキオ錯覚の実験は、ある種の刺激が、既有の知識や外形的な運動状態をそのまま反映させない身体意識を生起させることを教えてくれている。ということは、手を捕った敵を崩すための技法の要素として、そのような現象が関わっている可能性を示唆するものと見ることが出来る。つまり、

  • 捕られた部分を通して敵にある力学的刺激を与える
  • 敵はその刺激により、身体意識に変化が起きる
  • その身体意識をカバーすべく、「結果的に相手に有利になるような」運動が生起する

というメカニズムが想定出来る訳だ。このメカニズムの可能性が考えられるってことは、「大きな体力がなくても発生させられる力学的刺激」さえ与えれば崩せる、のを意味する。それはつまり、体力的に衰えても出来る、言わば汎用性が高いということだ。武術において、体力に大きく依存しないのは重要な条件だから、これは重要。
とは言っても、慌ててはいけない。何故ならば、あくまでここで分かるのは、そういうことが起きるかもね、という大まかな話でしかないから。具体的に考えれば、

  • どういう刺激が与えられれば
  • どのように身体意識が変化し
  • それが姿勢等の運動制御にどのような影響を与え得るか

という被術者の視点がまずあり、それが解明され、「どのような刺激を与えれば良いか」が具体的に分かったとしても、

  • その刺激をいかにして与えるか

という施術者の視点も考えなくてはならないから。ピノキオ錯覚実験では上腕二頭筋に加振された訳だけど、どうようの刺激でどこまでの錯覚が起こり得るのかとか、それは武術において合目的的な「姿勢が崩れる」といった現象に繋がるか、なども考えなくちゃいけない。それが分かっても、そういった刺激をどう発生させるか、もあわせて考察する必要がある。たとえば、
「前腕屈筋群に○○Hzの振動刺激が与えられればその人は身体意識の錯覚を起こし、結果姿勢が崩れる」
と言った現象が明らかになったとして、その振動刺激を施術者は発生させ得るか、という生体力学的な問題が出てくる訳だ。ヒトは解剖学的構造と生理学的機能に規定された存在だというのを忘れてはならない。たまに、それを考慮せずに、いきなり生体電気がどうこうとか言う人もいるからね。そこは気を付けたい。

また、生態学的妥当性の観点から言えば、
「実験情況で再現されるような現象でも、生態学的場においては実現しない可能性がある」
のも押さえておく必要がある。○○Hzの振動刺激は、実際の戦闘場面という、心理的に異様な情況においても一般的に有効なのか、それとも、そういった情況に応じて相当に刺激の効果は変わるか。
先程、身体意識は情況に依存するのだろう、と書いたが、その観点からすれば、どんな場でも有効な特定の刺激、というのはちょっと考えにくいとは思う。いやそれを見出したのが古来の達人であり、用語として合気を充てたのだ、という可能性はあるが、いささかロマンティックとも言える。あって欲しいとは思うけどねw もちろん、一つでなくても、数種類のパターンで対応出来るなら、それは大変汎用的で有用ではある。

ともあれ、ある種の力学的刺激が身体意識に錯覚を生ぜしめる、というのが心理学的実験において明らかにされている、その事実は大きい。身体についての知識の混乱と相俟って運動制御が崩れる、という現象が心理学的に充分あり得るのを示唆するから。

▼身体情報の無意識的知覚((2)P152)
運動制御における無意識的な情報処理の観点。
何か専門的な訓練をする場合はともかく、日常的にコップを掴んだりする際には、特にその運動を意識せずに行える。当然、視覚情報も利用されるが、身体情報も使われる訳だ。
ここらへんの研究には、まず生態心理学的な研究の展開が寄与している。アフォーダンスは有名だね。生態光学のJ.J.ギブソンによる概念ですな。最近では状況論などもある。この部分の記述は重要なので引用してみよう((2)P153)。

1つはアフォーダンスを中心概念とした生態心理学的研究が,”まず初めに身体情報ありき”の知覚論を展開したことである。生態心理学では,コップなどの環境物が動作対象として知覚される時(例えばコップはグラスピング動作の対象物),それらは身体部位の形状や動作特性などにスケール化された形(”直径10cmのコップ”といった量的な単位ではなく,”手の開きの大きさの0.5倍のコップ”)で知覚されるという立場をとる。そのため,身体情報を利用するプロセスの解明が重要な問題となる。

ギブソンの考えは、武術をやる者にとっても大変興味深いものと言えるので、関連書を読むことをオススメ。と言っても、かなり難しいw 私も何冊か読んだりしているけど(optical frowなどの概念は、心理学の教科書の知覚についての部分で必ず出てくるが)、面白いが手強い、という感じ。
アフォーダンス概念の説明。アフォーダンスとは、

 伝統的な知覚の理論では,生物と環境のあいだ,さらに生物自身の身体システム内部に想定される中枢と末梢とのあいだに制御する側と制御される側の主従関係を仮定してきた。つまり生物が空間を認知し,空間のなかに存在する情報を刺激として利用して行動(反応)すると考えてきた。一方ギブソンは,そうした利用可能な情報が空間に存在するというのは仮定であり,環境と相対的な生物の動きによって生じる光波の変化のなかから情報は抽出されると主張した(Gibson,1966,1979)。これが行為をアフォード(afford:提供する,与える)する環境のもつ行為可能性としてのアフォーダンス(affordance)である。
((1)P25)

これは、アフォーダンスの心理学的一般的な説明。この概念は様々な分野で援用され、必ずしもギブソンの定義が踏まえられてはいないということもあるみたいで、ちょっとややこしい。心理学者のノーマンによる説明もかなり広まっているらしい。そこに立ち入るほどの知識は持ち合わせておらず、また本題と少しずれるので、それは一先措いておこう。
せっかく武術と絡めて書いてあるので、ちょっと危険ながらも、アフォーダンスを使って説明を試みてみる。あらかじめ断っておくと、今から用いるアフォーダンス概念は、ギブソンが提唱したそれ、というよりも、拡大解釈され広まったものに恐らく基づいている。なので、それを踏まえて頂ければ幸い。

#####ここから未整理ごめん#####
さて、アフォーダンス概念を敷衍すると、環境の情報が既有の知識と照合され、それが「意味付けられる」のだと考えられる。つまり、物体の形状・物性・位置・自身の状態 等々の情況によって環境情報の意味付けが変わる訳だ。
今は武術の話なので、その文脈で考える。

武術でよく想定されるのが、「いつどこで敵に襲われるのか分からない」というシチュエーション。そして、いざ危機的情況に陥った場合には、その場の環境に応じて使えるものを使って切り抜ける、というのが目的となる。
たとえば、たまたまそこに棒切れが落ちていたら、それを杖代わりに使えるかも知れない。短ければ鉄扇術のような使い方になる可能性もある。つまり、それまでの知識に規定されつつ、自身がおかれた環境の情報によって、周りの物体が「武器としてアフォード」される訳だ。まあ、先に書いたように、「意味付けられる」と書いても良い。こういうのは、状況論的・記号論的・生態心理学的 な論理なのだろう。戦闘時には、あれこれ考えている暇はないから、無意識的にアフォードされた道具を使っていつの間にか戦闘を終了させていた、というのが理想的な境地か。
#####ここまで未整理ごめん#####

次は、もう一つの流れ。道具について。「道具の身体化」((2)P153)。つまり、道具を用いた動作において、その道具は手足の一部のように身体情報に組み込まれている、というのが脳損傷患者の研究で明らかになっているらしい。この、道具との一体感というのは、武器術を経験したことのある人は実感としてよく分かるだろうね。まるで道具の先に感覚器官があるような感じ。入來による類人猿を用いた認知神経科学的実験は、エレガントで劇的だ。私はこの実験を放送大学のテレビで知ったが、実に面白かった。とても面白いので機会があれば調べてみて下さい。
その他に援用されている実験があるが、それについての詳細は割愛。要するに、道具を手の延長として使うことで、身体情報も更新されるし、それは神経生理学的な部分にも反映されるということ。剣などを遣う人は、ニヤリとする事実かも。

▼身体意識と運動制御。二つのアプローチ:認知科学的アプローチ
認知科学は、ヒトの心を情報処理機構と捉えて研究する立場。そこでは、「身体スキーマ(身体図式:body shema)」、つまり、身体情報の統合的な表象が脳内に存在する、と考えられている。実証的な証拠としては、外的な実体の位置を正確に指すことは出来ても自身の身体の部位を指すことが出来ない、といったものがあるらしい。つまり、外的な空間的認識と、自身の身体の空間的な位置情報についての認識、それぞれの表象が独立してい存在しているのをその事例が示している、ということ。神経生理学的には、バイモーダルニューロンなどが注目されているようだ。ただし、身体スキーマ自体の存在は実証されているけれども、その詳しいメカニズムはまだ詳しくは分かっていないとのこと。

再三書いたように、自身の身体各部の位置情報の精確な認識は、身体運動パフォーマンスを高めるために重要な要素だ。身体スキーマに関する情報をフィードバックし、それをパフォーマンス向上のために用いているというのもあるのだろう。上手く相手を投げられた、という外在的な情報と、その時の身体スキーマを対応させ、「技が上手くいった際の身体スキーマ(あるいは身体意識)」といったようなフィードバックがあると考えらえれる。技が上手くいった時の「感じ」というのを経験したことがある人も多いはず。その「感じ」を心理学的に表現すれば、それは身体意識や身体スキーマであると言える。

▼身体意識と運動制御。二つのアプローチ:生態心理学的アプローチ
生態心理学的な立場については、上でも引用した。上手く咀嚼出来るほどの知識を有していないので、ほぼ解説を紹介するに留めるけれども、この枠組では、自身の運動時の環境の光のパターンの変化によって得られた情報が、知覚の重要な手がかりと考えられているようだ(光学的流動:optical frow)。それによれば、複雑な計算過程を必要とせずに知覚を説明出来ると。なかなか難しいね。。。エレノア・J. ギブソンの本を読んでも太刀打ち出来なかったというw

          • -

これらの立場は対照的ではあるけど、いずれも重要なものであることに変わりはないということで。どちらも説得力を持つように感じるんだよね。現象をよりよく説明出来る体系を見出していけば良い、と外野は思ったりもするけれど。

○高岡英夫の「身体意識」論
私の本ブログをお読みの方はご存知だろうけど、よくあっちでは、高岡英夫氏の「身体意識」論を援用している。最初の方に書いたように、高岡氏の概念は、ここで紹介した心理学的な「身体意識」とは、微妙に異なっている。ということで、これまで見てきたスポーツ心理学の観点を踏まえつつ、高岡の身体意識概念を考察しよう。

▼身体意識の定義
まず、高岡氏の「身体意識」の正式名称は、「体性感覚的意識」。これは、視覚的・聴覚的 意識と対応する概念として定義されている。すなわち、主に体性感覚情報によって生起される意識系、といった所。その略称が「身体意識」。詳しいことは、高岡氏の著作を参照のこと。後で部分的に引用する。
で、一見すると、先に紹介したスポーツ心理学的意味での「身体意識」と同じなのでは、と思うかも知れない。再掲すると、「身体意識:身体情報の意識的知覚」ね。だけど、実は同じではない。よく見ると、「身体情報の”意識的”知覚」と書いてある。要するに、固有受容器の感覚に注意が向いている、あるいは状態を認知している、と言って良いかも知れないが、ともかく、「意識している」のを示している。当たり前ではあるね。「身体意識」なのだから。

対して高岡氏は、身体意識概念に、「無意識」的なものも含めている。上で、生態心理学的知覚及び、道具との一体化、について紹介したけれども、高岡氏は、その部分をも含めて「身体意識」と概念化している訳だ。氏はフロイトを援用したりもしているので、無意識概念を重視するのも当然と言える。ここで、以前本ブログでも引用した高岡氏による解説を、再度引用してみる。

身体意識という言葉を学術的に概念として決定する際、私は概念の構成要件について厳密な検討を加えました。ある言葉を学術的概念として採用するには、概念化しようとする対象を、それを取り巻くもろもろの現象から切り分け、措定する必要十分条件を特定し、その言葉がそれらの条件を構成要件として完全に満たす事が必要です。今回の場合、私は次の9つの条件を構成要件としました。

(1)実体のごとく存在するが実体ではないという心理現象性

(2)身体の内部に実体があるかのごとき実感があるという体性感覚性

(3)実体のごとく存在する人には常に存在するという恒常性

(4)実体のごとく形があるという形状性

(5)形状が明確であり、時に幾何学的正確さを持つという形状正確性

(6)顕在意識にのぼることもあるが、他のことに意識がとらわれている場合も常に存在しているという潜在下心理現象性

(7)形状も場所も異なる複数個が同時に存在するという同時複数

(8)身体の内にも存在するが身体の外の空間にも延長的に存在するという心理現象性

(9)外観からでも見える人には見えるという身体反映性
高岡英夫[著]『センター・体軸・正中線―自分の中の天才を呼びさます 』(ベースボールマガジン社[刊])

ね、重なってはいるけど、微妙に違うでしょう。特に注目な部分としては、「構造」を持っている所と、それが意識下においても成立しているのを強調している点。それから、8番目の所は、先の、道具の一体化、とも繋がってくる。ただし、身体外部にどこまで敷衍出来るか、というのはよく考える必要がある。
高岡氏は、身体意識を、認知―運動制御 と密接に関連する装置として捉えていた。特に初期の著作では、より認知科学的な説明に近かったと記憶している。「光と闇」では、身体意識(ボディ・イメージ)と書いていたはず。スポーツ心理学的な理論からの援用だったのだろう。
氏は、この概念をあまりにも拡張し、非生物にも身体意識がある、といった矛盾した(時にオカルト的な)主張をしているが(体性感覚を元にした意識系なので、感覚器官を持たない物体が「体性感覚的意識」を持てるという論理はおかしい。※そもそも実体以外にもあると言っているので、そこまでいくと論外)、それを捨象すれば、興味深い説であるとは言える。氏は実践家でもあるから、その経験も大きく影響している。固有受容器からの情報が形状性を持っている、というのは推論の域を出ないが、先に出てきた身体図式の概念を考えるならば、それ自体は特に荒唐無稽な論ということでもないだろうね。丹田や正中線などを心理学的に解釈するには確かに都合が良い。まあ、その部分については、未科学とするのが適当と言える。

          • -

と、大分長くなってしまったけど、今回は、主にスポーツ心理学における「身体意識」概念の紹介をした。ちょっと武術の話とも絡めた。ポイントとしては、既に心理学的には、武術家が重視する「身体の感じ」というものを対象として研究しているし、大変示唆的な実験(ピノキオ錯覚)もなされているという所だろう。ある種の刺激が身体意識を劇的に変化させる、のは面白い。接触部から敵の態勢を崩す合気の技法を説明するヒントになるかも知れないのも重要だろう。

まさに、武術に携わる者は、科学は所詮自分達のやっていることを解明出来はしまい、などという狭量な態度をとる必要はないのだと思う。既に科学は、行為システムアプローチといった方法などを用いて(今回は紹介しなかったけど、「ベルンシュタイン問題」や「自己組織化」など、大変面白いトピックがいくつもある)、極めて複雑たる身体運動の解明に取り組んでいるのだから。

スポーツ心理学―からだ・運動と心の接点 (心理学の世界 専門編)

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