書き留める
敢えて書くほどのことだろうと思うので。
私は、ホメオパシー、あるいは一般的にニセ科学を信ずる人に対して、論理的に考えられないとか(知的に)愚かだとか、そういうことは感じませんし言いません。
ニセ科学言説はそれぞれに特有の論理体系を構成しており、それ自体を見てみればそれなりに整合的な場合もあります。
私は、ニセ科学論において重要なのは、「知らない」ことであると考えます。鋭い洞察力を持ち、ロジカルに考えられる人でも、科学の体系という膨大な知識とそれを維持する手続きの体制の厳しさを「知らない」。
社会において常識とされる、あるいは教育によって知っておくべきこととされる知識を知らないこと自体を批判する、という観点はもちろんありますが、私は、常識と思っていることはそれほど常識的ではないかも、と考えておくのも重要だと感ずるのです。考えるまでもなく自明だとか、それは常識だとかはあくまで、「そうであるのが望ましい」ということであって。
それは常識だろう、などと言われても、意外に「狭い範囲で常識的」なのかも知れない。自分が知らないことが他の人のあいだでは「常識」なのかも知れない。
当然、知らないにも拘わらず「知っていなければならない」ことについて物を言うのは批判されてしかるべきですが。医学的アドバイスをしたり、「科学」を非難したりね。何かを非難するにはその何かに関する知識を持っている必要があるので、その部分の無知は批判される。一般にWEB上での情報発信は、不特定の他者に参照される可能性を持つでしょうし。
-
-
-
-
-
-
-
-
- +
-
-
-
-
-
-
-
たとえば、血液型性格判断を信ずる人を評し、それを信ずるか否かでバカが判断出来る、などという物言いは不快ですし、自分でも行ないません*1。
たとえば、(ニセ科学と離れますが)肉の生食を戒めるのに、「肉を生で喰うのは野蛮だ」と言われて、即 はいそうですか、と長年続けられてきた習慣を改めるとは思えません。そういうのは、関係が近しい人同士でこそ通用する可能性があるような表現であると思います。
-
-
-
-
-
-
-
-
- +
-
-
-
-
-
-
-
私は、常に「自分が信じていたかも知れない」という怖さを感じながら見ています。よく書くのが、「10年前だったら水伝を信じていたかも知れない」と。水伝は、自然科学の基本的な知識や言語論の基礎的な部分を知っていれば「信じようがない」言説ですが、それ自体を見ればそれなりの整合性があります*2。そこに「科学用語の厚化粧」を施すことによって、なんとなくそれらしく見せる。それなりの整合性があるのと、「よく知らない科学の用語」がまとわされていることとによって、言説を受け容れる。よく知らないものについては判断を他者に任せる、のはそれなりに合理的です。誰だって明るくない分野ではそうすることがある。
-
-
-
-
-
-
-
-
- +
-
-
-
-
-
-
-
私は、血液型性格判断は最初から否定していましたが、その理由は、「経験に合わないから」というものでした。つまり、自身の血液型が当てられたことがない経験。それに、「血液型で性格が決まるはずがない」といった直感が加わり、否定的に捉えていた。でもこれは、「個人の経験によって信ずる」のと同型な訳です。「自身の血液型がよく当てられた(他人の血液型をよく当てた、なども)」「血液型で性格が決まってもおかしくない」などの経験と直感により信ずるのと同等。そこに答えを与えてくれるのは「知識」や「事実」、あるいは「証拠」であるにも拘わらず、個人的経験から抜け出せずに評していたのです。今信じている人を嘲笑いは出来ません(しする必要もない)。
ほら、血液型性格判断批判で、「性格が四種類に分けられるはずがない」と言う人がいますよね。別に「四種類に分ける」こと自体はおかしくはないと言うか、四種類の分類を否定する論理的な理由は特にないのであって、「どうなっているか」は「証拠」によって確かめられるべきです。そして、その証拠の部分は「知識」です。だから、仮に四種類に分類して良いという証拠がなければ(四種類に分類してはならないという証拠があるなら)、「性格が四種類に分けられる”はずがない”」とはならず、「性格は四種類に分けられない*3ことが”分かっている”」となるべきで、それ自体が証拠の提示が求められる類の言明です。
-
-
-
-
-
-
-
-
- +
-
-
-
-
-
-
-
私の、ニセ科学問題に関する、「知らない」ことがおそらく最も重要であろうという考察は、論に最初に触れた頃から持っていた考えなのですね。認識力のあるなし(だけ)ではなく、知識の多寡。「考えれば分かるだろう?」ってのは、「知ってなきゃ分からないよね」ってのと密接に関わっていると思うのです。