デマとか拡散とか
http://anond.hatelabo.jp/20111029052748
言いたいことは何となく分からないではないですが、練り方が甘くて雑くなっていますね。
情報が発信→拡散される過程というのは、単純に考えると、まず情報発信者がいて、他者に伝達され、その人がまた発信者になって……という連鎖が起こり、広く流布されていく、という構造だろうと思います。
その際に、情報を発信する人間の「意図」が絡んでくる。つまり、日常的に言う所の「悪意/善意」。増田氏はそこに着目して、悪意を持って広めるのは論外だけれども、善意によって広められる場合には、単にデマは止めろと強く批難するのではなくて、もう少し物言いというものがあるのではないか、と主張したかったのだろう、と私は読みました。
ところで、ある噂なりなんなりがある場合、それぞれの人がその対象を「評価」する訳ですが、その評価というのは、情報そのものに行う場合と、その周辺、つまり「発信者の意図」をも含めて行う場合とがありますね。
情報自体への評価としては、「間違い」とか「誤り」とか、まあそういうものがあると思います。対して「デマ」。これは結構ややこしいですね。辞書的には、事実に反すること、という意味とともに、「意図的」な扇動の意味合いも含む、とされています。それで、そういう意味合いで取ることも多いだろうから、ある人が誤った情報を広めようとした(あるいは広めた)ことに対して「デマを広めるな」と批判した場合に、いや自分は人を「騙そう」などとはしていない、と認識して反発する、ということもあるやも知れません。
これは語感、つまりある言葉をどのような意味合いで「解釈」するのか、という問題――コミュニケーションにおいて本質的に重要な――が絡んでいるのでしょう。その観点から言えば、デマという言葉の代わりに他の言い方を試みてみる、というのは一つの方法として検討してみても良かろうと私個人としては思います。
私としては、その辺りを考慮して、「デマ」をより限定的に、つまり意図的・扇動的な噂、と限定した意味で用い(ということは、情報そのもの+発信者の意図までも含んだ概念として用いる)、情報自体への評価として、誤った情報については「ガセ(ネタ)」とでも表現するのが良い、と考え、そのように使うようにしばらく前から決めました。
と言っても、ガセの語も、元々は単に誤りという意味合いではないですし、そこに強くネガティブな印象を持つ人もいるでしょうから、そこは他にも「誤り」や「間違い」など、色々な言葉を用いることが出来ると思います。それぞれのコンテクスト(実際のコミュニケーションの場)を考え、情況に応じてフレキシブルな対応をするのが良いでしょう。不特定多数が見ることが想定されるWEB上の文章などは、より誤解を受けにくい言葉遣いを工夫することが求められるでしょう。
そういう意味では、そもそも世の中に正しい情報なんてありません。
持論を主張したいと考えるあまり、高度に哲学的な部分に踏み込まざるを得ないようなことを書いてしまいましたね。では(哲学的な)懐疑主義のような極度な相対化をして、あらゆる情報を同等に信用出来ない、とでも看做しますか? それで日常生活をどう送っていけるか、と考えてみれば、そう簡単にその種の主張は出来ない、と気付けるでしょう。別に、客観的に正しいことはあるのか、とか、人間にそれが分かるのか、などのむつかしい話をしなくても、物事は蓋然性を考え、より確からしいものから、これはあり得そうにない、というものを、証拠に基づいて検討・評価していくことを認識すれば充分だろうと思います。
冗談ぽい表現を混ぜてみた、ということでしょうが、完全に滑りましたね。ある言葉の遣い方を論じようとする人にしては実に不用意。
よかれと思っても、それでどこかに傷つく人がいるんじゃないか?と考えよう。
(中略)
これが出来れば、情報を信じようが、信じまいが、
(あえて言うけど)情報が嘘だろうが本当だろうが、
傷つく人は居ないはずです。「デマを拡散しない!」や、「反対情報を調べる!」とかって言うのは、どうでもいい。
いや、自分が発した情報によって他者が傷付くかどうか、という検討自体が、その情報がどの程度確からしいか、という評価と密接に関わってくることでしょう。デマを拡散するな、という訴えかけは、それによって害を及ぼした、という例示などとともに、標語的に主張されることもある訳で、いかに、不正確な情報を流布するのが危険か、というのを実感させるか、が重要なんでしょう。尤も、上にも書いたように、その狙いを考えれば、「デマ」の語はきっかけを作るにはあまり適当ではないような気はします(まず反発を呼び起こしそうな印象)。もちろん、偽情報発信者の行いを正し、反省を促す、という目的ではなくただ糾弾する、と思っている人としては、そういう事情はお構いなしなんでしょうが。
それを、信じることが情報リテラシーなんでしょうか?
いや、信じないことが情報リテラシーでしょうか?
各メディアを色眼鏡で見ることや、自分が信じない情報を制限することが
果たして、高い情報リテラシーでしょうか?
情報リテラシーというのは、社会科学的に重要な概念だから、真面目に論じようとすると定義論も含め複雑な話になるでしょうから突っ込んだ議論は措いて、伝えるメディアや情報の出所を考慮して、その確からしさの程度を判断する、のがまさに重要でしょう。たとえば、審査がない学会発表で伝えられたものよりは、一流雑誌に投稿された査読付き論文の方が信頼出来るであろう、というのは一般に言えることだと思いますが、そういうのを総合的に検討しつつ考えていくものです。
マスメディアの報道についても、各紙の記事を比較検討して共通の情報を見たり、差異を分析したりして、可能なら更なる情報の出所を探ったりする、などをしていくことが、リテラシーと呼ばれる能力の具体的な形態であろうと思われます。
もう、『デマ』って言うの止めませんか?
『人に優しくしよう』でよくないですか?
個人的にはデマの語は使わなくなりましたが、だからといって、使うのは止めよう、と主張するのもなかなか難しいものがあります。そう言うよりは、使うのなら、反発された場合にも丁寧に意味合いを説明する構えを持っていて下さい、と言ったり、全体的な言葉遣いを考慮して下さい、と提案するのも良いんじゃないですかね。
あとまあ、善意は行為を正当化しない(するとは限らない)ということで、あまりにも不用意だった場合に、お前何してくれてんだ、て怒られることもそりゃああるよな、と思わないではないです。かと言って、WEB上で誰彼構わずそんな態度をとるのは単純に品が欠落してると感ずるので、個人的には言葉遣いには気を遣いたい所ではありますが。
自分自身、これまで間違えまくってきて、そしてこれからも間違えまくるのは分かっているし、やっぱ言い方というのは重要なファクターと思うですよ。そんな言われ方したら聞き入れる訳ないだろ、みたいな指摘ってのは、うんざりするほど見てきた(自分もしてきた)
コミュニケーションって難しいですね。