天才か早熟か
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「画力」とやらが1次元的に評価出来ると仮定する。
全人類(←曖昧ね)の「画力」に点数をつけ(ることが可能とし)、ヒストグラムを描く。
適当に年齢別に層化してみれば、それぞれの層で「画力」ヒストグラムが正規分布状になる、と仮定する(つまり、人間の「画力」は正規分布に従う、と想定)。
さて、低年齢層という群において、「右端」に位置する、つまり「同年齢の人達」の中で突出した能力を示す者が当然いる。その個体に対して、「天才」と評価することは妥当か。
そもそも「天才」をどのような概念か、と考える視点がある。
ある年齢層においてごく少数しかいない者がいるとして、その年齢層が若年層だと考えると、まずはその区間に含まれる個体は「早熟」であると評価することが出来る。簡単に言うと、「”若いのに”すごい」といった評価。
その場合に、早熟であるという条件をもって「天才」と言えるのか否か。
もしも、その低年齢層の分布が、それより高年齢層の分布とかけ離れていた場合、つまり、低年齢層の人々におけるトップが、高い年齢層の人々での「真ん中」辺り程度の能力と同等でしかないとすればどうか。早熟であっても、それを「天才」と呼べるか。
もし、低年齢層のトップの人が、より高年齢の群におけるトップと同等の能力を持つのだとすれば、おそらく一般にそれは「天才」と評されるだろう。多分、10代でワールドカップに出場して大活躍するような選手などがそう。
尤もこれも、層別せずに全体を考え、その中で右端にいる人々を天才と評価するということで、天才を相対評価の概念とする、という前提がある。それが妥当かという観点はもちろんある。たとえば、数十年前の100m走の世界トップクラスは、現在のそれとは差があるはずだが(今のトップの人達の方が高記録。跳躍競技などはまた別)、その場合、「昔の人より今の人が”より天才”」などといった評価が許容されるのか否か。
絵画のような芸術の世界は、そもそも能力の評価ということ自体が難しそうではある。スポーツの場合、物理学的に測定される、ある意味で「誰にでも分かる」指標がある。そもそも「どうすれば勝つか」という基準が記号論的恣意性によって決められたものであるし、その過程で直感的に分かりやすいように決められたという経緯も少なからずあるだろう(より速くより高くより遠く、というやつだ)。
当然、スポーツといっても、フィギュアスケートやシンクロなどのように、芸術的な要素が評価される競技もあることは忘れていないので。
話を戻して、絵画のようなものはどうなるのだろう。コンクールはあるだろうが、その評価基準はどの程度客観的(測定可能か、ということ)なのか、ということも考える必要があると思う。芸術的作品の評価というのは難しそうではある。そもそも普遍的な「優れている」という概念自体が有り得るのか、みたいな哲学的な問題も絡むだろう(私はそんなものはないと考えている――恣意性によって「価値付けられる」から、普遍的な美というものは存在し得ない――が、それはまあどうでも良い)。
とすると、「画力」のような概念を、芸術的な能力から切り取って数量化可能にして評価する、という方向に行くのだろうか? 線を安定して引く能力とか、徹底的に精密に対象を描いてそれを画像解析にかけて点数をつけて順位をつける、とか。
いやそれだと、芸術という全体から無理やりに切断して仕立て上げた「別物」に成り下がるではないか、という意見もあるだろう。高岡英夫が、測定器によるパンチ力測定などを、格闘技全体から切り取った全くの別物と考えたようにだ。
ということで、「早熟」と「天才」の概念との関係とか、天才を相対評価と見るか絶対評価と見るか(「早熟」は字面からして相対評価)などが考えられるし、根本的には、画力その他の構成概念を一体どう評価するのか、という問題がある。最初にやった、画力を1次元で評価出来るとした仮定など、所詮は非現実的な仮定なのであった。
これは余談だけれど、私は、「骨格を感じられない画」は好ましくないと認識するので、彼女の画は一つも「来ない」のであった(木はそんな構造で苛烈な自然の環境において直立し続けられるの? などと訳の分からない評価をするのだ)。
ああ取り留めない。