効くかどうかとメカニズムとコミュニケーションと

鬼蜘蛛おばさんの疑問箱:再度、菊池誠さんの野呂美加さん批判とEM菌について

いくつか。

菊池さんが野呂さんの提唱している放射能対策について何ら具体的理由も示さずに「効果がない」と断言したり、東京で被曝によって鼻血や下痢の症状が出ることはあり得ないと断言していることだ。これはとても科学者として責任ある発言とは思えない。

菊池さんがどのくらい「効果がない」「あり得ない」と断定的に発言しているかは押さえていませんが、もしそれが頻繁になされているとすれば、あまり好ましい事ではありません。
まず言えるのは、「効果がある」「効果が無い」というのは、「調べなければ解らない」という事です。それが無い場合、効果が無いと断定するのは無理。

では菊池さんがそれを押さえていないかと言うと、そんな事は全くありません。菊池さんのブログや著書を広く参照すれば解る事です。
なら、菊池さんが「効果が無い」と「表現(あるいは発言)」していた場合はどうなのだ、と言われれば、それは、「意味が違う」と言えるでしょう。つまり、そこで言う「効果が無い」という表現は、「確かめたら効果が無かった」というのを(必ずしも)意味しないという事です。
具体的には、「これまでの知見から考えて、それが充分な効果をもたらすとは考えにくい」といった所でしょう。これは、それまでの科学の知見を援用(あるいは応用)した見解と考えれば、妥当です。

そういう解釈が成り立つとして、じゃあ、そういう意味合いでもって「効果が無い」と言ってしまうのは、非常に紛らわしいのではないか、という指摘があろうかと思います。私もそう思います。同じ言葉に持たされる意味にぶれがある場合は、「解っている」者しか適切に、文脈に応じた解釈が出来ない、というのはしばしば起こる事です。そこで効かないと表現しているのは実は、と言われても、そんなの解るものか、となったりする。科学の話に限りません。

なるだけ正確に、誠実に表現するならば、

「効果があるという証拠は得られていないし、他の知見から言って”効きそうに無い”という事くらいは言える」

とでもなるでしょうか*1

先にも書いたように、菊池さんはその論理は押さえています。従って、「そういう所を菊池さんが弁えていない」という指摘であれば、それは完全に的外れと言えます。
ただし、だからといって、「効かない」というような表現は安易である、という指摘も外れている、とはもちろんなりません。そりゃあ早計だし隙のある言い方だよね、と見るのは妥当。
たとえばtwitter上で、「そんなの効きゃあしないよ」みたいに、雑談ぽい流れで出てきたとします。まあ当人同士では文脈が共有されているから、会話としては成り立っている訳です。でも、WEB上では誰が見ているか判りませんからね。少なくとも、思っていた読みから外れた解釈をされたら丁寧に説明出来る構えはとっていてしかるべきでしょう*2

ところで、菊池さんは、当該対象について「効かない」と断定的に語ったのが、どのくらいの頻度でありましたか?

ちなみに、菊池さんは、「具体的理由」は示していますね。あのエントリーで言うと、Q&Aにリンクを張っているのですし、そこに依拠しているのでしょう。
ただ、リンクを示しているだけで、後は、対象がおかしいと「前提」になっている、と読まれるのはあるでしょう。また、他者の論に「頼っている」とも見えるでしょう。ですから、自分の見解はここに書いてある、という風に示しておくなどの工夫は重要です。そこまでしても尚読んでくれないのなら、読まない側の方が問題だ、となりますしね(他者の意見を参照する側もそれなりの労力を割くべきです)。菊池さんの表現は、ある意味で諦めや慨嘆となっているように思いますが、「解っている者」以外に理解されない可能性は考慮する必要があるでしょう。じゃないと、「閉じてるんだな」と直感されますね*3

 最近になって、また「野呂美加さんと『チェルノブイリへのかけはし』についてもう少しだけ」という記事を書いているが、相変わらず「野呂さんが言っていることや書いていることは基本的におかしい、まあだいたいはでたらめと言っても過言ではないだろう・・・」と、根拠も示さずおよそ科学者とは思えない書き方をしている。野呂さんを貶めているも同然だ。

(※リンクは引用にあたり外した)はっきり言いますが、菊池さんの指摘は具体性に欠ける所があります。いくつか野呂氏のコアな主張を拾って具体的詳細に批判をした方が良いでしょう。「知っている者にとっては当然」でも他の人にとってはそうでは無い、などというのはいくらでもあるので。
ちなみにこれは、菊池さんの主張や指摘がおかしいと私が認識している、というのではありませんからね。「足りない」という指摘のみです。

それから、「基本的におかしい」「まあだいたいはでたらめと言っても過言ではない」という表現。前者は言い直せば、「基本的な知識の部分からして不足している」という事で、後者はそこから導かれたものでしょう。
論理的に言えば、「だいたいはでたらめ」というのは、限られた数の主張からは導かれません。100回デタラメを言った人間が、次に何か画期的な論を主張する、というのはあり得ない事は無いからです。
しかし、日常的・常識的な見方としては、いくつかコアな主張があって、それが深刻な知識不足を示しているのであれば、それは、他の主張も信頼に値しないであろう、と推測するのは充分に合理的です。一々主張を網羅的に検討する必要などどこにもありません。おかしな事を強い調子で言う、というのがいくつか連続したのならば、もうその人の意見を真面目に聞く必要は無い、と判断するのは妥当です。
その事についてはここでも書きました⇒数撃ちまくれば
「貶めている」かどうかは、その対象が何をどのくらいの強さで言っているか、によるでしょう。
私自身は、疑惑・半めっこ飯のようなものを見るだけで、この人の言う事を積極的に聞くのは止めた方がいい、と思いますが(「電子レンジ料理は便秘になります。」などと断定的に語っている。電子レンジは単に加熱の仕方が違うのであって、その調理法のみの条件が「便秘」を惹き起こすとは考えにくいし(これまでの知見による理論的考察)、そんな臨床的知見も無い)。

 乳酸菌をスプレーした玄米の放射能はスプレーしていない玄米の4分の1になったというのだ。たった一度の実験結果でしかないが、乳酸菌が放射性物質の低減に役立っている可能性を示唆している。現代の科学では解明されていないからといって、安易に否定すべきではないだろう。

「示唆」などしていません。効果研究とはそのような安直なものではありません。重要なのは、

  • 変化は誤差(「与えたもの」のせいではなく偶然的に変わり得る)かどうかの検討。
  • 他のものと「比較」してどうなのか、という検討(「対照」をとって比較する、と言う)。
  • 実は別に同時に変化した条件の可能性は無いか、という検討。
  • 変化があるとして、それは実質的に意味があるのか、という検討。
  • 他者による充分な考察を受けたか(査読、追試)。
  • 人為的ミスの可能性の検討。

これらを総合的に検討する事です。そして、科学のプロフェッショナルはそれを常に念頭に置いています。

これはよく見る誤解ですが、「科学的に解明されていないからといって」という判断は、効果を云々する文脈で科学者はしません。する人がいないとは言えませんが、科学的にメカニズムが未解明だから「あり得ない」と断言はしません。まああり得なそうだ、という判断はあっても、絶対に、と言うのは無理です。
従って、「現代の科学では解明されていないからといって、安易に否定すべきではないだろう。」という文を科学者に見せれば、何を当たり前の事を、と一蹴されるでしょう。そもそも科学者とは、未解明のものを知りたい、という人々でもあります。
もちろん、主張するものがそれまでの知見から考えて説明しにくいようなものなのであれば、それに見合う「強い証拠」が必要なのは言うまでもありません。一件や二件の事例では、その現象の存在の可能性を「示唆」などしません。

ところで、効果研究、つまり、何かが効くかどうかを調べる、というのは、「メカニズム」は後です*4。まず「効くか」が重要。仕組みや機構を云々するのは、科学的な議論や研究の契機としては大切ですが、効果があるか否かとは、一応別の話として捉えるのが肝要でしょう*5

*1:ここは後段の見方が実は非常に重要で、「知見を押さえている」人とそうで無い人との見方に差が出てくる。論理的可能性だけを考えれば、「有り得そうな度合い」を評価出来ないから、周辺の知識を知らなければ、批判的な意見が悉く「乱暴」に見えるという訳です。

*2:訊く側の態度にもよる。それも会話と一緒。

*3:しつこいようだけど、読む側も労力を割くべきです。直感のみによる判断は駄目

*4:どうでも良いという意味では無い。

*5:「効く/効かない」再びでも書きました。長いので別に読まなくても良いですが。