エビデンスと納得と拘りと
丸山ワクチンについてお話した - Togetter
おくあき氏は、氏なりに合理的であろうと信ずる推論を行なって主張しているものと想います。即ち、
- 論理的思考の能力に優れた者が支持している。
- 多数の患者が使用している。
- 多数の人が延命している。
こういう所を、持説を補強するものと考えているのでしょう。
でも、これだけで充分な証拠にはならない、というのは、それほど複雑な話では無く、少し時間をとって熟考してみれば、認識するのはそこまで難しく無いはずです。
一番目については、論理的思考に優れていようが、「確かめなければ解らない」事について適切な意見が言えるとは限らない、という話ですし、二番目三番目は、時間経過や他の要因が同時に変化した事による結果の可能性、という所を考えれば良い。色々な商品でも、「売れているものが良いとは限らない」というのは、それこそ常識的な知識だろうと思います。
にも拘わらず、頑なで聞き入れないというのは、それが効いているのだと信じたい、という信念があるのやも知れません。もちろん、上に挙げた条件が、効くと主張するための充分なものである、と思い込んでいる、という可能性もあるでしょうし、こういうのは相互作用して認識が作られているのでしょうが、「こうあって欲しい」といった信念は結構強固なものなのだと思われます。
そして、それを正当化するように情報を解釈していくと。今は、何かが効くかどうか、という議論なのですから、最も直接的な証拠は、きちんと設計された研究によって得られた良質なデータですが、それを持たない人は、間接的な証拠を示そうとします。たとえば、製薬会社や医療従事者が不利益を被るから普及を阻んでいるのだ、という陰謀論的な社会要因であったり。そんな事をすると、「陰謀論を支持する主張」を新たに提出する必要がある訳ですけれど(全然異なる文脈の主張が増える)、それもしません。
事実を無視して論理的・理論的な可能性のみを云々すれば、大概の事について、「説明をつける」事は出来ます。言い方を換えると、「否定し切れない説明は出来る」。陰謀論はそれの典型例とも言えるでしょう。極端に言えば、
「これまでに”効かない”とされてきたデータは全て誤り、ないし捏造である。」
とでも主張すれば、否定はし切れない(現象としてあり得ない事では無い)訳です。
で、そういう信念を持つ人が、効く効かない、という文脈を的確に把握し、証拠に基づいて判断する事を意識するようになる、というのはなかなか難しいのだと思います。
私などは、科学を真面目に勉強するようになって、その辺の論(エビデンスベイストな見方の重要さなど)に触れた時、割とすんなり受け容れる事が出来たのですが、それは何故でしょうね。多分、そんなに物事に拘っていなかったから、というのがあるのかも知れません。良くも悪くも、ものを見る眼が醒めていた、のだと思います。あんまり、「こうであって欲しい」というのを考えていなかったのでしょう。これは、価値観や世界観も関わってくるし、心理学的な問題でもあるのだと思います。もちろん、新たに知識を得て、それまでに形成された強固な世界観が変容する、というのはあるのでしょうが、どのようなきっかけでどのように変化するか、は人それぞれでしょう。
ものを信じる事、説得する事、論理的に考える事、理論的に考える事、自身が持っている信念と向きあう事、世界観を意識する事、物事をメタに捉える事、等々が複雑に絡み合って、一人の人間の認識とそれに纏わる議論が形成されているのだと思います。ただ単に、主張は論理的か、理論的か、という事のみならず、色々の、心理的・社会的・哲学的な糸が撚り合わされた紐のようなものでしょうか。それを上手く解きほぐしていくのは、容易に出来る事ではありますまい。
一旦解ってしまうと、「なんでこれが解らないのだろう」と他人に対して感じてしまう事があります。勉強を教えたり、PCの操作を教えたりする時に、そうなりませんか。その時には、ちょっと落ち着いて、「自分が出来なかった頃」を思い返すのが、ひとつ重要なのではないかな、と思います。