零危険志向を嘆く前に
いや、嘆きながら、でも別にいいんだけど。
確率的なものの見方を教える、解ってもらう、というのは必須の条件ですよね。先決すべき事柄だと思う。なぜなら、リスクを評価するという事は、現象の確率的な変動や誤差という概念が前提となっていて、それがある程度直観的にでも理解されていないと「話にならない」のだから。
冷静に考える人の中でも、誰だって、最初からそのような見方が出来ていた訳では無いでしょう(何しろ最初は赤ん坊だ)。気づきが得られた年代もきっかけも、様々でしょう。専門的な訓練(つまり適切な科学教育や研究活動)を受けてようやく、という人もいるはずです。
それはある種、世界観の変革で(これは特に大げさな表現では無いと思う)、ある意味世界に対しての「割り切り」*1や「諦め」の入った見方です(多分、ここが本質的に重要な部分)。だから、そこに認識を持っていく(よう仕向ける)のは容易ならざる事です。そして、その見方をしない人を、無知と言って嗤ったり切り捨てたり、というのは、あまり好ましいものでは無いと考えます。
もちろん、基本的な態度からして、全く聴く気が無かったり、相手をなめた感じだったり、という人はいるし、まあ腹が立つ事はあるけれど(WEBはまだマシだ、というのが私の実感)、それはそれとして、どうにかして理解してもらう、という道を探るのは無意味では無いと思う。と言うか、そう信じたい。
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私自身の経験を言うと、私の「きっかけ」みたいなものは、日科技連出版社の本によって、確率統計、あるいは品質管理や信頼性工学の考えの一端に触れた、という事だったと思います。ただその前に、科学に関心を持って、「取り敢えず確率統計を勉強してみよう」という動機づけがあったのもポイントなのでしょうけれども。
人によっては、科学哲学の本であったり、クリティカル・シンキングの本であったりで、批判的思考(ここには確率的な見方が重要なものとして含まれる)に触れた、という場合もあるかも知れません。私は、最初に科学哲学の本は読んでいたけど、そこでは特に深く考える事は無く、工学系の本で勉強し、その後に、クリシンの本を読んだり科学哲学の本――伊勢田さんのものなど――を読み直したり、疫学の本を参照したり、という流れだったかな。
*1:少なくとも今の人間には、世界はシンプルに割り切って捉えられるものでは無いのだ、という割り切った見方。