懊悩――食習慣に関する認知の方向転換
それまで何十年も、何も疑問を持たずに美味いと思って食ってきたものが、実は公衆衛生的に無視出来ないリスクを蔵しているのだ、と知った時の悩ましさは結構なものなのです。
やっぱ、色々考える訳ですよ。よく食べてきた物なのに全くそれについて知らなかった自分の愚かさについてとか、いやそれまで自分は食べてきてどうも無かったよ、とか。もしかしたら、食べ慣れている地域の人は体質的に他の人と違ったり、あるいは薬味等が何らかの効果を及ぼしているのかも知れない、とか。「実は危険だったのだ」と知らされた場合に、「実はその危険は回避されていたのだ」と仮定し、「無知だった自分はいなかった」ように正当化しようとする、そんな心理が働くのです。そこを何とか堪えて、より合理的・客観的な所を参照してそれによって心身に染み付いた習慣を相対化する、というのは実に難しい。
肉の生食なんて野蛮だから止めろ、という意見を目にして、実際にその習慣を持っている人間が、はいそうですか、とすぐに素直に従えるか、というと、そんな訳が無いと私は考えるのです。お前がやっている事は野蛮だ、と言われた所で、余計なお世話だ、となる。私は実際に、自分が習慣としているまさにそのものについて、それは野蛮な行為だ、と指摘している意見を目にしました。まあ、良い気分はしないものです。
そういう危ない習慣を持っている者に気を遣っていられるか、という意見もあるかも知れません。けれど、もしも、批判や指摘に、「その行為の危険さを周知し、改めさせる」といった目的があるのならば、それが逆効果になる可能性は考慮してもよろしかろうと思います。
ここで私が言っているのは、「物言い」の問題です。ですから、そんな習慣を持っている者がどうなろうが知った事では無い、という人については、特に言う事はありません*1。そうで無い人には、もう少し、指摘の仕方に、表現の仕方に気を遣ってみても良いのではありませんか、と言いたいのです。
これは、食習慣の部分に、他の色々なものを代入しても当てはまるだろうと思います。自分が愛好しているもの、本気で取り組んでいるものについて否定されたり、それまでの言動が無駄であった事を知らされたり、実はものすごく危険な事であったと言われる、というのはきついものです。でも、言う側としては、何らかの意義があるから指摘している、のだと思います。であれば、せめて、表現の仕方に工夫をする、くらいの心がけはあって良いのではないでしょうか。
私は、自分自身が思い込みが激しく、ものを理解するのに時間がかかり、感情的・直感的な所があるので、自分が指摘されるのも丁寧にして欲しいし、自分もそうしようと思っています。要するに甘ったれている訳です。でも、批判したり指摘したり、というのはやっぱり、多少でも考えを変えて欲しい、行動を改めて欲しい、と思うからやっているのですよね。であれば、ある程度の「甘さ」を持たせておく方が目的に適う場合もあるでしょう。
もちろん、説明の際の理論や論理や証拠の固め方、批判対象の欠点の指摘そのものに一切の妥協があってはならないけれど、今は、極めてフレキシブルに、情況に応じて展開し、言う側と言われる側の「関係」が強く影響する、コミュニケーションの文脈の話です。
*1:ただし、「他人に感染させるな」という認識がある場合には、「どうなってもいいから好きにしろ」と両立しない場合がある