「いじめられる側に“原因”がある」という表現

渡邊芳之先生ynabe39の「「いじめられるほうにも原因がある」ということと「いじめられるほうも悪い」ということは「まったく別のこと」である。「いじめられるほうにも原因がある」を「間違い」として批判する人はこの2つを混同していることがある。」 - Togetter
※ページタイトルからアットマークを抜きました
要するに、いじめという現象あるいは行為について、「原因」がいじめられる側にあると考えるのは妥当。しかし、「原因」がある事と、その原因を持つ事が「悪い」と考えるかどうかは別である、という話なのでしょう。
このまとめを眺めて、私も以前に似たような事を書いたのを思い出しました⇒いじめ: Interdisciplinary

いじめが顕在化した際、加害者(第三者も)が、「いじめられる側に原因がある」と言う場合があります(被害者が、いじめられた過去を振り返って、その様に言う場合もあります)。

当たり前です。原因など、いじめる側が「勝手」に設定するのですから。仕草が気に食わない、ものの言い方が癇に障る、容姿が嫌だ、等々。そう考える事によって、自らの行いを正当化するのです。「あいつはいじめられても仕方がないのだ。」と。

強調は今加えました。私が思うに、「原因」という語の語感と言うか、どのような意味を含むか、という所にズレが生ずる場合があるのではないでしょうか。つまりその語に、
1.いじめという行為・現象が生起する端緒
という意味のみを込めるか、あるいは、
2.いじめという行為・現象が生起した事が必然的である
という意味をも持たせるか。
1は、「きっかけ」とも言い換えられます。先に引用した私の別ブログでも書きましたが、それはきっかけだから、何でも恣意によって、つまり自分勝手に設定出来る。容姿、喋り方、癖、趣味、家族構成、出身、等々、対象が持つあらゆる属性を、「原因」として仕立て上げる事が出来る。もしかすると、社会的に、「きっかけとして設定されやすい属性」があるのかも知れません。それは社会心理学的なメカニズムによって恣意的(ここの「恣意」は、「必然的では無く社会的」という、記号論的な意味合い)に構成されるものなのでしょう。渡邊氏が、いじめられる側の「原因」を把握しておかねば対処も充分に出来ないのではないか、と言うのは、この辺りの構造を意識しているからだと思われます。
そして2ですが、これはつまり、「それが起こったのは必然的だ」という含意。もっと書けば、「いじめという現象が起こったのは、その条件(原因)があったのだから当然」というような意味合い。これは、単なるきっかけという意味に加えて、いじめという現象が起こった事の因果関係(着目している属性や行動→いじめという行為 の連鎖)が必然的であった、という意味をも加えています。価値的なものによって構成され変化し得る社会的な事よりもっと強い構造と、それに基づいた因果関係を示唆する(そうならない事が無い、というような)。これは容易に、「いじめが起こったのは(いじめたのは)仕方が無かった」という、いわゆる正当化のために用いられます。
このように、「原因」という言葉にどのような意味を含ませるかによって、その語を用いた表現・主張をどのように評価するかは異なるでしょう。2の意味まで込める時には、「いじめられる側に原因があるなんてとんでも無い意見だ」と批判する。で、言い訳をする側が2の意味も含めているような様子なら、「そんな言い逃れが通用するか」みたいに批判するのは、やっぱり重要だと思うのですね。いや、いじめられる側に原因があるのは確かなんだから(1の意味のみを認めている)、そういう意見をけしからんと言うだけでは駄目だ、みたいに指摘してもしょうが無い所がある。ですから、ここではどういう意味合いで用いているか、という所を確認したり整理したりすれば、議論は円滑に進むでしょう。
ところで、いじめの原因が、いじめられる側にあるのは当然だ、と私は書き、渡邊氏も似たような事を言っている訳ですが(1の意味において)、もう少し考えると、「いじめる原因はいじめる側にある」と表現する事も可能です。何故ならば、「いじめる相手の属性を勝手に(恣意により)原因と仕立てあげた原因はいじめた側であるから」。言葉は文脈によって色々な意味を持たされるし、原因とか因果関係とかは、哲学的にも科学(経験科学)的にも複雑な問題が絡む語だから、用いるのがむつかしいものです。