頭の良い人のやり方

渡邊芳之先生ynabe39の「「恵方巻きなんて10年くらい前まで誰も食べていなかった」ということも言わないとみんな「日本の古き良き伝統」だとか思い始めるぞ。」 - Togetter※タイトルからアットマークを抜いた
渡邊氏の最初の発言。

恵方巻きなんて10年くらい前まで誰も食べていなかった」ということも言わないとみんな「日本の古き良き伝統」だとか思い始めるぞ。
http://twitter.com/ynabe39/status/297878110345498624

「誰も」という所がポイント。これ、「誰もと言うが、自分は食べていた」という反論があった時、「“誰も”とは文字通り“一人も”という意味では無い」と返せるようになっている。全称命題的な表現だけど実は文字通りの主張をしている訳では無い、と。日常的な表現ではそういう事がしばしばあるので、その辺りの「言葉の問題」を巧みに利用している。「絶対」とか「一番」とか「全く」とかそういう言葉と一緒。
誰も食べていなかった、と書いて、それに、自分は食べていた、と返されたら、「別に文字通りの事を言った訳では無い」という含みを持たせつつ、解っていないなあ、と嘯く。言葉の使い方の微妙さ曖昧さへの理解の足りなさとか、文脈の読めなさとか、そういう所。「やれやれ」と。
渡邊氏が言っているのは、このまま(コンビニ等がこの時期に恵方巻きを売り出す事)だと、ごくローカルな風習であったものが、時間が経って、広い地域で長年(実態より長く)伝えられてきたものの如く社会に認識されるかもよ、という事(仮定を立てて、そのままではこうなるよ、と未来について予測している)。その「ごくローカルな風習」であった事を、「誰も食べていなかった」と表現したと思われる。
で。言及された習慣なりについて、「誰もやっていなかった」と言われていたら、「いや自分は やっていた」と言いたくなるのは、ある意味当然の事で(「言い方」は別の問題として)。何で知らないのにそういういい加減な事言うのか、となるだろうから。渡邊氏は、それを判っていてああ書いたのだと思う。神経を逆撫でする事が予測出来て、実際にそう来たら、その人の理解不足を実に冷静に(冷酷に)分析してみせる、というもので、それは大変底意地の悪いやり方で。敢えて隙(虚)を見せておいて、そこに斬り込まれたらすかさずかわして叩きのめす、という武術の技法のようでもある(どこまでを想定して行なっているかは知らないけれど)。
もしも、いやその表現(「誰も――いなかった」)は全称命題だから駄目だろう、という反論があったら、「あなたはその種の表現に、いつもそんな厳密な意味を込めているのか」と反撃出来るようになっている。あなたが「誰も」という表現を使う時、それは文字通り「一人も」を意味するのだろうね、と。それに対して、「そうだ」と言える人間は、そんなにいないのではないかと思う。少なくとも私は(「少なくとも」も興味深い表現ですね)、日常的な言葉遣いにおいて、「誰もいない」という表現は、「一人もいない」と「少数しかいない」の両方の意味で用いている。
いやはや、巧妙な事で。