陥穽?

「若者バッシング批判」の陥穽 - brighthelmerの日記
id:brighthelmer さん はてなブログにはトラックバックが無いみたいなので、IDコールで失礼いたします
主旨としては、若者を根拠無しにバッシングする論を批判する事が、本当にあるかも知れない若者の問題から目を逸らす事になってしまってはいまいか、というご指摘だろうと思います。
で、私自身、後藤和智さんの言説は見ていましたし、俗流若者論については多少の関心を持っています。そして、リンク先に、

ゲーム脳」はトンデモである、などなど。しかし、そのような「若者バッシング批判」が、見落としているものがあるのではないかとの指摘もある。

こういう文があります(強調は引用者)。
ゲーム脳論への批判は別に俗流若者論批判と同じではありませんが、ゲームをやるのは若い世代に多い、と考えれば(本当は、それ自体もちゃんと確かめねばなりませんが)、若い世代がよくやるゲームのせいでその世代が悪影響を被っている、というような主張は、広い意味では俗流若者論の一形態とは言えるのかも知れません。ここではそのように前提しておきます。
それでですね。私自身、ゲーム脳説を批判してきました。多分、分量で言えば(質はともかく)、上の方ではないかと思います。その意味で私は、引用文中にあるような、ゲーム脳説に反論して若者バッシング批判を行った論者の一人である、と言えると思います。
そういう論者の一人として明言しますが、ゲーム脳説を批判し、不当に若い世代を貶めるような主張に反論を行なっていますが、その事と、若い世代に特有の問題など無いと考える事は全然異なりますし、私自身、そういう事は思っていません。
若い世代に共通する、何らかの特筆すべき問題点がもしあるのだとすれば、それは明らかにされ、適切に対処されるべきでしょう。そんな事は当然ではありませんか。
ポイントは証拠です。質・量ともに充分な証拠があるかどうかで、その説を支持出来るかどうかが判断される訳です。
……というような事を書いていたら、リンク先のはてなブックマークに、書き手の方ご本人によるコメントが入っていました。

brighthelmer 分かりにくいと思いますが、後藤さん個人に対する批判というよりも、言説批判の営みが時に対象そのものについて論じることを「意図せずして」妨げてしまうという指摘と考えてもられば。 2013/07/05
http://b.hatena.ne.jp/brighthelmer/20130705#bookmark-153067926

後藤さんを引き合いに出しておいてこれは、ちょっとどうかなと思います。と言いますか、意図せずして起こる事をもって、ある行動や言説に陥穽があると表現するのは書き過ぎなのでは? 若者バッシング批判は文字通りに見ればそのまま、若者をバッシングする言説への批判というだけなのですし。
そしてそれ以前に、言説批判の営みが時に対象そのものについて論じることを「意図せずして」妨げてしまう事がそもそも本当にあるのか? という指摘も出来るでしょう。それはどのように確かめたのでしょう。犯罪社会学におけるこうした論争を敷衍するだけでは根拠薄弱なのではないでしょうか。

 「昔と比べて今の若者は劣化していない」ということが事実であったとしても、それは今の若者に何の問題もないということと同義ではない。

これは全くその通りです。当然ですね。

しかし、それとは別の次元で、今の若い人たちが抱える様々な困難を分析し、その緩和を試みることは重要な課題ではないだろうか。様々な若者論を批判し、「若者は劣化していない」と言い続けるだけでは、そうした課題に取り組むことはできない。

これも論理的にはその通りでしょう。片方だけやっていては充分では無い、という指摘なので、当然過ぎるくらいに当然です。
でも、です。このような当然の事を、「若者バッシング批判」の陥穽というタイトルの文章で書くのはどうしてでしょう。若者バッシング批判をやる者は、同じように、若者の問題点も探っていかなくてはならない、という要求なのでしょうか? さすがに違いますよね。一人が割けるリソースは限られていて、ある言説を批判するのは時間も頭も使います。
であれば、敢えて陥穽などという言葉を使わなくても、若者バッシング批判だけでは足りないから、沢山の人が力を合わせて色々なアプローチで多面的に若い世代の事を考えていこう、と提言する方がよっぽど有意義だし建設的だと私などは感じるのですが、いかがでしょうか?