記号の解釈の前に――作者が知っている

今度は、少し本論に関係のある話。
あの表紙を見て、シチュエーションを想像・想定して、それに解釈を施している、のが見られますね。本を読んでいるのは自律の象徴だとか、掃除させられていたりケーブルを繋がれているのは女性を拘束する事の表現だ、みたいに。どのような行動の流れの中を切り取って描写したものなのか、を想像した上で色々語られている。
でもですね。私達が知っているのは、経験的な知識に基づいて、これはこうなのだろう、と想像した事でしか無い訳です。実際どのような場面であるかは、作者が知っているものです。あるいは、作者と直接コンタクトを取って相談する編集の人なども、それを知る立場にあるでしょう。
少なくとも、どういう流れの中を切り取った場面であるかは、作者が設定して画にしたものなので、正解はあり、それは作者が持っています。もちろん、創造する時にそこまで詳細な設定をしない事もあるでしょうし、創造した後に、出来上がったものから新たに設定を加える、ような場合もあるでしょうが、コノテーション的な解釈(それ自体を明確に描いている訳では無い、暗示的なもの、くらいの意味です)を別にして、時間的・空間的な配置(どのように動き、どのような行動の順序を取ったか)や、その時のキャラクターの行動の意味や認知のあり方などは、作者が設定したものが正解に決まっている訳で。
あの表紙に描かれている掃除機学会誌名の変更と新しい表紙デザインのお知らせ | 人工知能学会 (The Japanese Society for Artificial Intelligence))が、本を読んでいるのかいないのか、なぜこちらを向いているのか、向いた先には何かあるのか、誰かいるのか、その本は何が書かれているのか、その本に掃除機はどのような関心を持っているのか(そもそもであると認知出来ているのか)、あのケーブルは何なのか、あの掃除機は誰に作られたのか、作った存在があるとすれば、その存在の属性は何か、時代はいつか(そもそも我々の歴史を踏まえて設定されているのか)、等々については、作者が知っているものです。それは、その事については深く設定していないとか、そもそも設定が無いなどの部分も含めて作者が知っているという意味です。
今の議論は、フィクションとして描かれた作品について自由に想像を巡らせて楽しむ、のでは無く、その場面の設定を通して、現実の性別役割分業や性差別について考える、という文脈ですから、そもそもどのように設定されているのかを踏まえる事が重要だと思います。
あれは実は本を読んでいないのでは?という解釈は前のエントリーで書いた通りですね。後、あのケーブルはゴミを吸い取る用途では、て意見もありましたけれど、そういう機能を持つものはもっと口径が太く大きく、ケーブルでは無くダクトと呼ばれるのではないかと感じました(力学的な事情によって構造が決められているのでしょう。また、電気系に詳しい人は、ああいうケーブルがどういう機械の電源から繋がれるものか、も瞬時に解るのかも知れません)。でもそれも、作者がダクトの意味合いで細いケーブルを書いた可能性もある訳で。そういった部分も含めて、作者が知っている所で。

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2013年12月31日追記:
id:Chelsea-green 氏、曰く

それに対しては表現と意図は別であり、あくまでその表現がどのようなメッセージとして機能するかが問題なので作者の意図はあまり重要ではない、という反論ができますから 何を問題にしたいのかがよくわからないです 2013/12/31

いやいや、反論、て……。
私は、作者の意図とその読まれ方が異なる事があり、その読まれ方が社会的に重要な部分である、というのは認識しています。そういう、記号論社会心理学が関わりそうな所は大切ですよね。けれど、このエントリーではそういう話はしていません。
私が言っているのは、作者がこう書いた所はこういう解釈が出来る、という意見があった時、こうの部分が違っていたら意味が無いので、そういう読み方をするなら作者による設定を確かめた方がいいよね、という話ですから、別に、反論がどうとかいうような主張ですら無いです。作者がどういうつもりで書いたかは知らないがこのように見えるとか読み取れる、という意見とそれにまつわる議論は別のものです(全く何の関係も無いって事は無いですが)。
たとえば、あれが本を読んでいる場面だと捉えて意見を言っているのが沢山ありますが、実は、本を読んでいる場面では無いのなら、その先の解釈は全部ずれますよね。ここはもう、作者の設定を踏まえないとどうしようも無い所です。
さすがにこれを(実際はそうで無いのに)、「本を読んでいるように見える」と考えて解釈を進めるのは無理があるでしょうし。
と言うか、表現した創作者の意図と受け手の解釈がずれる、という部分が何で、私の意見の反論になると思われたのでしょうね。よく解りません。だって、はい、それはその通りですね、と思いますもの。記号表現に発信者が載せたメッセージと受信者の解釈とがズレる、というのは、コードが厳密に定義されている訳でも無い、ヒト同士のコミュニケーションでは最重要の観点でしょうから。
ただ、私は少なくともここでは、その話はしていません。
ちなみに、私にはもう、あの場面は、本は読んでいないようにしか見えません。ハードカバーを閉じているようにしか見えないのですね。
それから、ケーブルの話ですが、あれをアタッチメントと捉えるか、本体から伸びているものと見るか、も全然違う見方ですよね。*1もちろん、ケーブルが人間状の何かに繋がっているという表現自体を問題と思う人もいるかも知れませんけれど、一般の掃除機みたいに本体からケーブルが出てそれが電源に繋がっている、のか、電気自動車の給電のように、本体側に接続する、という方式なのか、で解釈が違ってくる人もいるでしょう(内蔵バッテリに給電するのか、常時電源接続が要るのか、が社会的概念とのアナロジーの違いとなってくる可能性がある)。そういう場合は、本を読んでいるか読んでいないかと同じく、作者の設定の確認が重要だろう、と私は思います。
このエントリーの書き方が甘かったり言葉が足りなかったりする事はあるでしょうし、それは指摘されれば、補うなりするに吝かではありません。ただ、それに対しては表現と意図は別であり、あくまでその表現がどのようなメッセージとして機能するかが問題というのは理解しています。で、その事がこのエントリーの主張への反論にはなりません。なにしろ私は、こう表現している部分はこんな解釈が出来るのでは、という意見の「こう」の部分はきちんと確認した方がいいよね、て事しか言っていないのですから。それは、この記事の作者たる私が一番よく知っています。

*1:この観点については、数日前に http://twitter.com/Silver_PON/status/416552217735208960 にて言及があります