健康とは
「専門家」が私たちの「健康」を定義するのでしょうか? - Togetterまとめ←これ絡みで
手許にある、疫学・保健統計、公衆衛生学方面のテキストにおいて健康という概念がどのように解説されているか、という事の紹介をします。
▼文献1
公衆衛生―健康支援と社会保障制度〈2〉 (系統看護学講座 専門基礎分野)
- 作者: 星旦二
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2010/08
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WHO(世界保健機関)は,「健康とは,身体的,精神的,そして社会的にあまねく安寧(あんねい)な状態にあることであって,単に病気がなく虚弱ではないということではない」と定義している。WHOは,この定義とともに,「達成可能な最高水準の健康が人々の権利である」ことも同時に宣言している。
Health 1948 WHO
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
WHO(世界保健機関)の従来の健康の定義によれば,なんらかの病気をもちやすい高齢者や障害者は不健康であるとみなされる。そこで健康についての新しい考え方が求められてきている。
東京都の健康づくり検討委員会では,健康の概念について,福田邦三(東京大学名誉教授)が示した健康の定義を紹介している。ここでの健康は,「その人が社会において生活している状態が悩みなく,不安なく,調子よくいっていること」そしてここでは,「人間像および生活像が健康であるか否かが問題となり,それが健康であるようにとの念願が生じ,健康ないし健康生活というものは,状態としてばかりではなく,念願として大きな意味をもつ」ことである。
念願も重視した新しい健康の定義を受けて検討会は次のように報告している。
「健康づくりは,こうした健康の概念を前提として,各個人が健康についての正しい知識をもち,健康についての新しい知識を吸収し,各ライフステージに適した主体性をもった健康維持習慣,健康行動を展開することである。健全な成長・発育をすすめ,そして老化現象の進行を可能なかぎりおくらせるとともに,よりよい健康を目ざすことが健康増進であり,健康づくりでなくてはならない。また,このことはいわゆる半健康の状態にある人に対しても当然必要なことであると言えよう」としている。
一方,厚生省の国民健康会議からは,「病気とともにいきいきと生きる生き方」が提唱され,「一病息災」つまり「多少の症状や持病があっても,自分の体をたいせつに,精神的にめげない程度に病気とつきあっていこう」とする健康づくりについての新しい考え方が示されている。
このように,新しい健康の考え方は,病気と対立した概念で健康をとらえるのではなく,人間としての自己実現の達成度合や,生活ないし人生の満足度をたいせつにし,個々人の生き方や主観的な要素も重視しているのが特性である。
WHOは1999年の総会で健康の定義として dynamic と spiritual ということばを提案している。Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
▼文献2
標準保健師講座〈別巻2〉疫学・保健統計 (Standard textbook)
- 作者: 牧本清子,芦田信之,尾崎米厚
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健康状態の把握を疫学的に行う場合「健康とはなにか」「疾病とはなにか」といった健康および疾病の定義の問題がある。疾病統計を行うには,ある人が疾病にかかっているかどうか,どのような疾病かを決める基準が必要になってくる。それらの分類を行うことにより疾病単位が明確になり,疾病の実態の比較が初めて可能となる。分類の原則は,(1)すべての疾病を包含する,(2)それぞれの疾病は互いに排他的であること,である。排他的とは,1つの疾病が同時に2つの疾病に分類されない,ということである。
健康の定義はWHO(World Health Organization)憲章が有名である。
「健康とは,身体的,精神的,社会的に完全によい状態にあることで,単に疾病または虚弱ではないということではない」と表されるが,「完全によい状態」の人などいないので,「与えられた遺伝的,環境条件のもとで身体機能が正しく働いている状況」(WHO専門家会議広義の定義),「明らかな疾病が認められず,性,年齢,社会環境,自然環境を考慮して,一般に認められている健康の基準に当てはまる状態,身体の諸臓器が正常に働き,互いに均衡を保っている状態」(同狭義の定義)とも定義される。
これらの定義に従うと,いずれも,「疾病」がなにかわからないと健康であるという状態が決められない。しかし,健康と疾病は二者択一的なものではなく,連続性のある状態である。例えば,「医療サービスが必要かどうか」「生活指導など予防の働きかけが必要かどうか」「それらを見つける方法が一般に存在するかどうか」「何らかの社会的な支援が必要かどうか」などの要素により,ある状態が疾病と判定されたりそうでなかったりする。そこで,一定の判定基準を設定する必要が出てくる。
このように健康と疾病の境界には絶対的基準がないが,健康状態を比較し,課題を明らかにするためには,どこかに線を引かないと始まらない。さらには疾病体系を国際的に標準化しておかないと,その分類,比較にも不便である。各疾患の診断基準は時代とともに発展し,変化してきている。毎年のように新たな疾病も見つかっている。一般に,症状,他覚所見,検査初見の組み合わせで疾病の診断基準をつくっている。
疾病を分類するためにつくられたのが,WHO国際疾病分類である。疾病数の増加,疾病体系の考え方の変化などにより,ICD-6から用いられてきた分類コード,分類項目,分類方法が大幅に改訂された。
第10回国際疾病分類の特徴をみると,疾病分類コードを従来の4桁の数字から,アルファベット+3桁数字とした(基本分類)点にある。そして,疾病項目は従来の約7,000から約14,000に増加し,章構成も従来の17から21へ増加した。
▼呟き
私が、岩波『科学』の発言
「専門家」が私たちの「健康」を定義するのでしょうか? 専門家による判断ではなく、社会的合意による判断の領域があること。科学の領域と社会的判断の領域の区別を意識すること。3.11後の『科学』論文選『科学者に委ねてはいけないこと』の底流にある問題意識です。
http://twitter.com/IwanamiKagaku/status/545935734251606016
を見て思ったのは、うん、まあ普通の事書いているんじゃないかな、というような感じでした。もうちょっと細かく書くと、それとともに、専門家なら当たり前に考えているような、専門的には普通の事を何故、さも新しい視点かのように言っているのだろう、とも思いました。
ただ、同時に、健康という言葉の定義は、かなり一般的と言うか抽象的なものにならざるを得ないし、その定義の段階に、どういった社会的な合意というものが関わってくるのか良く解らない、という考えも持ちました。最初に引用した教科書の文における健康の定義を見ても、そりゃそうだな、そう考えざるを得ないよな、結局、当たり前過ぎる事を書くしか無いよな、と思わされるものではあります。抽象的で、定性的で、ある程度長い文で、個別的な文化に依存しない一般的な定義を書くしか無い、と。そこ(定義)に社会的合意なる概念は、具体的にどのように関わってくると考える事が出来るでしょうか。
何となく、この文(『科学』のtwitter上の発言)で引っかかりがあるのは、専門家による判断ではなく
という所かな、という気がします。ここがたとえば、専門家による判断だけではなくであれば、印象が異なっていたやも知れません。では無くとだけでは無くは、たとえ書き手が同じ意味を込めていたとしても、読み手が違った読み方をする可能性がありますね。では無くは、それを含めないという意味で捉えられる場合があるので。今の流れだと、専門家の意見を相対的に軽視する、というように見えてしまいます。ここら辺が違っていれば、反応は、当たり前の事を今更?といった程度のものになっていたかも。もちろん、当該発言を行った書き手の認識については、所詮は推察止まりですが(twitterなので、試しに問うてみる、という事をしても良かったろうに、とも思います)。
私が引用した、疫学・保健統計および公衆衛生学のテキストの文に関しては、日常的にも用いられ、人間にとって普遍的な問題であり言葉である所の健康はそんなに単純な概念として扱える訳が無いから、そういう内容の説明になるのだろうな、ならざるを得ないだろうな、という感想でした。
それから、3.11後の『科学』論文選『科学者に委ねてはいけないこと』
なるものを参照しているか否かで、印象も異なったのかも知れません。私は読んでいませんから、先にも書いたような、普通の事言ってるな、という感想になりました。その意味では、文脈を補えない読み手だったと言えます。
月並みですけど、言葉の問題は難しく、まして、専門分野の関わる定義の問題は格段にややこしいな、という事を考えた、のでした。