《ニセ科学》という語

note.com

気に入らない。というのは好悪も入るので、そう感ずる事についてはしようが無い、と思います。

ニセ科学の概念と議論に関して、私もそれなりに考えてきたので、リンク先の主張を検討しようと思います。

世の中に数多存在するトンデモを分類するにあたって、ニセ「科学」として、科学を特別に括ることに、実益はない。

実益はないとありますが、量的評価はともかく、科学の観点から分類する事によって、科学を悪用(意図的か否かに拘らず)する主張に焦点を当て検討を促す事が出来る、というのが一つの意義です。たとえば、科学的に証明されたというようなフレーズが宣伝に用いられたとして、そこに虚偽が入り込んでいる可能性に目を向けさせる訳です。その検討に際しては、科学なる概念・意味の内容を把握する事が必要です。

倫理的にいいことだから嘘でもオッケーというのは、水伝、江戸しぐさあたりに共通の動機であるといえる。

↑これら主張の重要な所は、それを根拠付ける部分を真実だと吹聴する事です。水伝(水からの伝言)を主張する人びとは、いわゆる水の結晶の実験を事実であると言っていて、それを受けた人が、実験結果は事実であるからと信じた訳です。実際、水伝の主唱者は、自分たちの論が科学的であると言いました。であるから、その科学的と称する部分にクローズアップするのは当然であると考えます。以前書いたもの↓

interdisciplinary.hateblo.jp

水伝はニセ科学だが、江戸しぐさはそうではないということになる。

江戸しぐさニセ科学としない理由は特にありません。そこで展開されている主張が、文科系学問のスタンダードから外れているにも拘らず、事実であると確認されているかのように主張すれば、それをニセ科学と呼ぶ事は可能でしょう。もちろん、リンク先でも言われるように、科学の範囲をどう定めるか、にもよります(私は、人文・社会・自然含めた学問領域全体に適応出来ると考えています)。

「うちの学問(例えば心理学)は科学なの?そうじゃないの?」という疑問が出てくるのは、当然である。

↑当然ですね。ひとまずは、実証的方法が採られていて、主張をよく吟味するシステムが整備されている領域、とする事は出来るでしょう。しかし、じゃあその実証システム・制度はきちんと機能しているのか、といった疑問を投げかける事は可能です。ここら辺は、科学哲学上の議論にも繋がるでしょう。
ちなみに、菊池誠氏は超心理学ニセ科学と評していますが(あ〜る菊池誠(@kikumaco)/「超心理学」の検索結果 - Twilog)、超心理学の研究者は、実証科学的方法を適用しようとはしています(メタ超心理学研究室 「超能力の科学」を科学する!)。菊池氏は、なぜ超心理学ニセ科学と評価出来るか、しっかり詳細に説明する必要があるでしょう。なにしろ、一つの分野そのものがニセ科学である、と主張しているのですから。※超心理学を研究する石川幹人氏は、疑似科学を科学的に考える事を標榜するサイト(疑似科学とされるものを科学的に考える|Gijika.com)の統括研究者です。菊池氏は、それも踏まえた上で、石川氏を批判しています

このように、実益も合理性もない問題設定をする以上、それは学問的営みではなく、社会運動の類であることを頭に入れておくおくべきである。

↑実益・合理性については先述の通り。科学なる知的営為を悪用した主張がある事を意識させ、そこにクローズアップして整理・議論がおこなえます。これは量的評価ではありません。少なくとも、量的に見て大きな利益が無ければ対象化は意味をなさない、といった類の話では無いでしょう。

ニセ科学を批判する行動が社会運動的である事は、その通りだと考えます。しかるにそれは、実益も合理性もない問題設定をするからでは無く、自身が関心を持つ領域にニセ科学が入り込んでいて、それを選択的に採り上げて批判をおこなって社会的な関心を得ようとする、からでしょう(私の場合だと、ゲーム脳)。

学問としてある現象を分析するために問題領域を設定する場合には、なぜその領域に限ったのか、その根拠が問われることになる。しかし、「ニセ科学」にはそれがない。

↑あなたは何故その領域におけるニセ科学言説を採り上げたのか、という問いはあるでしょうが、それをニセ科学概念一般に対して問うてもしようが無いと思われます。人間の知的営みとして科学なる方法があり、それが誤って用いられる場合がある、という事を対象化している訳ですから、初めから、(科学の内部における)領域限定的な話はしていないと言えます。

だが、ニセ科学批判論者には、自らの社会運動性に対する自覚が完全に欠如しているように思える。「科学」の正しさを笠に着て、その政治性に無自覚だとすれば大いに問題である。

ニセ科学概念の広さを考えれば、ニセ科学批判論者の語で括られる集まりの一般的性質は語れないでしょう(そのままでは、ニセ科学を批判する人たち程度の意味しか持たせられないから)。具体名を何名か挙げるなどして、この集団はこうである、と言えば良いのです。そうすれば、見た人が、確かにその集団に対してはそうだ、とか、ここの評価は妥当では無いのでは、といった検討が出来ます。

科学の手続きを踏んだ上で反証された血液型性格診断などは、そもそも「科学ではない」とは言えない(科学的に間違っているとは言える)のではないか。

↑いわゆる血液型性格判断の説を、実証科学的な表現で捉えると、

血液型なる生物学的特徴と、性格なる心理学的特徴とが、予測に使えるほどの強い関連を持つ

のようになるでしょう。科学では無いとは、この説(実世界で現象しているという考え)に対する評価です。心理学的には現状、予測出来るような関連は無い事が判った、とされます。ごくごく慎重に言っても、その説を支持する証拠は無い、と言えます。

当然、科学的であると言うのと、正しい事とは同一ではありません。科学的とは、科学の方法によって、成り立つ事が確かめられた、との意味ですから、その否定は、科学の方法によって、成り立つ事が確かめられていない、です。

もちろん、科学的である事と、正しい事を直結させるように考えたり、そういう印象を与えたり、は良くないので、そこを意識しておくのは重要です↓ ※便宜上、前者が科学的に正しいと表現される場合もあり、そこが紛らわしいです。私は使いません

interdisciplinary.hateblo.jp

このうち、2、3について、「科学でない」と言い切れるのかはかなり疑わしい。 むしろ、科学のプロセスの中で棄却された、あるいは棄却されるべき仮説という意味で、科学の枠内に属するものと理解するべきではないだろうか。

↑すぐ上で書いたように、科学でないといった表現の解釈が異なっています。もちろん、説明する側が丁寧にすべきであるのは当然です(それが出来ない人を見る事は、私もあります)。

これらをひっくるめて「ニセモノの科学」として断ずることは、本来科学の手続きの中に属するものを「正しくないから」という理由で分断処理するものではないかという疑いがある。「正しくないものは科学ではない」というのは、すなわち「科学であるからには正しい」ということである。

↑これまで書いたように、そうはなりません。科学の手続きで認められたのでは無い現象を科学で無いと言っているのですから。それは、

「科学であるからには正しい」などとは思っていない

からそう言える訳です。「正しくないものは科学ではない」は、科学なら正しい、と言うのと同じですが、そんな事は考えていません↓ ※そう取られないように注意する、のは重要です

interdisciplinary.hateblo.jp

科学が、正しさの発見プロセスとしてではなく、「正しさの象徴」として理解されることは危険である。

↑その通りです。しかし、ニセ科学の議論は、科学を「正しさの象徴」などと捉えるものではありません。※科学(や工学、科学技術)が現象の予測や制御に強力である事は押さえておきます。で無いと、科学を過小評価してしまうから

ニセ科学」批判運動は、科学の「絶対的正しさ」を維持する方向に働くばかりで、科学的に導かれた結論に疑問の目を向ける契機に乏しい。

↑敢えて運動と表現するようなものかは判りませんが、科学の「絶対的正しさ」など、全く志向していません。そういう人間がいる事は否定出来ませんが、それを言えばキリがありません。もし言うのであれば、検討する対象の集団を明らかにすべきです。名指しでもして。

科学リテラシーをつけるというのは、「科学でないものを見抜く力」を養うことではない。

↑この直後に挙げられている2つの点を踏まえれば、それが養われる事も(結果的に)いくらか期待は出来るのでしょう。もちろん、科学リテラシーなる語の定義次第でもあります。

科学の信頼性を損なうと、人はあらゆる陰謀論への耐性を失ってしまう。その意味において、科学の信頼性を護ることは重要である。しかし、間違ったものをニセモノ呼ばわりすることでは、そのような事態を回避することはできない。

ニセ科学ニセであると評されるのは、間違ったものだから、ではありません。

間違ったものを間違っていないかのように言う

からニセなのです。※間違っていないものを間違っているかのように言うものもあります

────────────────────────────────────────

リンク先では追記として、菊池誠氏とのやり取りを経た後での考えも書かれています。そこで引用されている菊池氏がおっしゃっているように、科学をちらつかせて言説を展開するものがあり、そのようなものを検討する際に、科学であるかどうかが重要であるので、ニセ科学を対象化する事に意義がある訳です。

────────────────────────────────────────

2021年5月5日追記

リンク先に更に追記されていますので、そこに言及します。

「科学の手続きに則ってはいるけど、まだ検証が不十分でわからないことが多い研究」
「科学ではない」とはいえないが、

まだ検証が不十分でわからないのであれば、それは科学の手続きによって主張がまだ認められていないのですから、その時点では

科学では無いと言える

訳です。
現象についての仮説が今、検証の最中であり、研究が蓄積されている所である、といった意味合いを付与して、敢えて未科学と表現される場合もあります。色々研究されているがまだ確立されているとまでは言えない、のような概念です。

当然、未科学と位置づけられそうな説を、あたかも確立された知見のごとく吹聴するのならば、それはニセ科学と評されます(科学で無いものを科学であるかのように言うから)。

ここで注意すべきは、科学かどうかを検討する場合に、

  • 検証のプロセスを指す
  • 対象の説(現象についての命題など)を指す

この両方が有り得る事です。前者が科学における標準のプロセスに則っている(科学的である)としても、まだ知見として確立していなければ、後者については科学では無いと言える訳ですね。

やはりこの問題の解決は、「科学というものは、ただ信じればよいものではない」ということを根気よく啓蒙することによってしかたどり着けないのではないだろうか。少なくとも「科学でないもの」を一生懸命批判したところで、根本の問題は何も解決しないのではないかと思う次第である。

↑この種の意見は、これまで何回か見てきました。単純な話です。

両方やれば良い

のです。

「科学でないもの」を一生懸命批判する事と(実際には、科学で無いものの真部分集合でしょうが)、「科学というものは、ただ信じればよいものではない」ということを根気よく啓蒙する事とは、全く両立します。排反なものでも何でもありません。どちらかをおこなえばどちらかが必ず疎かになる、といったものでもありませんし、もしそういう傾向があるにしても、各自がそれぞれのリソースを配分して活動すれば良いだけの話です。そして、私はそれをやってきたつもりです(実例の提示)。

もっと言うと、ニセ科学の実態を知らしめる事そのものが、「科学というものは、ただ信じればよいものではない」のを知らせる機能をいくらか担っている、とも考えられます。