《ニセ科学を見抜く方法》はあるのか

ある。が、それは難しい

というのが答え。

まずおさらい。ニセ科学とは何か。

科学のようで科学で無いもの

の事。だから、ニセ科学を見抜く方法とは、

科学のようで科学で無いものを見分けられるか

と言い換えられます。当然それには、科学とは何か、を知っていなければなりません。

科学の方法を大雑把に、単純化して書けば。

  • 実験や観察、調査でもって研究しデータを集める
  • データを処理して論文を書く
  • 論文が審査(査読)されて雑誌等に載る
  • 他の研究者も同じような研究をして確かめられる
  • 分野の知見として確立される

こういった流れです。ニセ科学を見抜くには、対象にしている言説が、上記のプロセスをクリアして認められたものであるかを、まず知っていなければなりません。

こう書くと簡単そうですが、まず、データの集めかたや処理のしかた、それをどう検討や考察していくか、といった所のルールを把握する必要があります。別にこれは、科学に限った事では無く、スポーツでも何でも、その分野におけるルール――決まり事や作法、みたいな表現も出来るでしょう――を把握しておかなければ、その分野について語れません。それと一緒です。

科学のルールには、物事の測りかたや、得られたデータを統計的に処理したり解釈したり、といったものが含まれます。そのルールを把握する事自体が、とても難しいものです。科学は細分化していますから、ほんとうにきちんと検討するとなれば、科学を専門にする者であっても、分野が異なれば勉強し直して備える必要があります。

それらの知識を得て初めて、対象の言説がそのルールに従って確立されたものかどうかを判定出来る準備が出来る訳です。けれども、知識は短期間に身に着くものではありません。そもそもが、高校までに学んだ知識を前提として、大学において何年もかけて勉強していく事だからです。結局、

大学に行くなりして勉強し直す

のが必要となる、とも言えるのです。自分でちゃんとニセ科学を見分ける事を目指すならそうなります。

けれども、それは簡単に出来る事ではありません。単純に、時間と金がかかるものだからです。そこで、

大きなリソースを割いてまで目指す事なのか

といった問いが出てきます。限りある人生、時間をどこに割くかは重要な問題です。他に趣味や、仕事の目標等もあるでしょう。それを蔑ろにして、知識を身に着ければ見分けられる、と言ってもしようが無い事です。

もちろん、そういった知識を若い内に備わらせるのを社会的に目指すべきで、それが教育である、と考える事も出来るでしょうし、確かに教育は重要でありますけれど、その事とは別に、備わらなかった人がどうするか、も考慮すべきでしょう。

実際に細かい科学のルールまで把握し厳しく検討するというのは、先ほども書いたように、リソースを大きく割くもので、皆がそうすべきだ、と言えるものでもありません。そこで、科学のルールにおいて特に重要なエッセンスを抽出して、検討する際に注意を要するポイント、といった風に共有しておくアプローチが考えられます。

たとえば、論文が査読を受けたものかどうかに着目する、というのが例です。別に研究内容の具体的な所を知らなくとも、論文が査読を受けたものかどうかが、一つの目安として機能する訳です。これは、データ取得や解析方法の細かい所を検討するほどの大きなコストは払わないが、単純に論文が載った事実のみで信用するといった粗い判定は避けられます。ルールの要点を把握する事によって、幾らかリーズナブルに考察出来る訳です。

あるいは、きちんとプロセスをクリアしているのならば、社会的にこうなっているはずだと仮定して、実際にそうなっていない事をもって、検討している言説は確立されたものでは無い、と判定の手がかりにするものもあります。たとえば、ある病気に対する特効薬的なものが出来たとするニュースなりがあった場合、もしほんとうにそういうものがあるとすれば、既に医療機関で広く使われている(保険適用されている)はずだといったように。これは、科学のルールそのものと言うよりは、更にそれを取り巻く社会的な構造に着目した検討であると言えます。

その他に、その道の著名な学者がどう評価しているかを見る場合もありますが、これはかなり注意を要します。なぜなら、

  • ほんとうにその学者は専門分野か
  • 専門分野であるとしても、その新奇の説にどのくらい関わっているのか
  • その学者は、検討にあたって最新最良の証拠を参照しているのか

などを考える必要があり、それは結構難しいからです。研究領域が細分化していれば、○○学のような標榜をしていても、それがどのくらい直接的に関わっているかは判断しにくいですし、専門であっても、ちゃんと最新の知見を参照して検討しなければ、意見が的外れになる可能性もあります。そもそも、対象のものに複数の分野が関わる場合もあります。いま話題の、COVID-19に対するワクチンなどについてもそうです。ワクチンの話を訊きに行くなら、免疫学者・薬剤疫学者・公衆衛生学者・感染症学者・呼吸器内科医・薬剤師、の誰にしましょうか。

これは、ある種の権威に頼る方法です。細かい知識を得る代わりに、詳しい人の意見で判断する訳ですから。失敗すると大変な事になりますし、まずニセ科学を主張する側が、医師や学者を前面に出してその手法を用いたりします。それが一概に問題という話では無く、専門家の意見を参考にするにしても、専門家は何を参照しているかに目を向けるべきです。

また、これは見抜く見分けるといったやりかたとは異なりますが、

新しいものは取り敢えず保留しておく

というのも、一つの方法です。別の言いかたをすれば、

新奇のものに無闇に飛びつかない

とでもなるでしょうか。何か新しいのが出てきたみたいだけど、よく分からんから措いておこう。ちゃんとしたものであればその内に普及するだろうし、といった具合に放っておく訳です。

もちろんニセ科学的言説は、興味のありそうな所を突いてくるものです。難病を治す、ダイエットに効く、めちゃくちゃ長持ちするバッテリーが出来そう、といったように、いかにも生活に役立ちそうな部分を標的に狙い撃ちしてきますから、そういうものでも冷静に眺める、という備えを持っておく必要があります。これは、優れて心理的社会的な要因も関わってくるものでしょう。放っておくのは、科学全体にそんなに関心が無い人のデフォルトの態度ではあるでしょうが、そのままだと、いま挙げたような所を突かれたら興味を惹かれる可能性があるので、興味あるものでもひとまず保留するように備えます。これ自体が一つの訓練と言えるのかも知れません。

ここからは、私自身がどのようにしているかを書きます。自分はこのくらいのリソースを割いている、という話でもあります。

まず、基本的な認識として、次のように念頭に置いておきます。

自分がどれだけ勉強をしたとしても、詳しく無い分野のニセ科学をうっかり信ずる場合がある

こうする事で、よく知らない分野の説は取り敢えず保留します。ここを基本姿勢にします。間違っても、自分はどんな分野のニセ科学もすぐに見抜ける、と思う事はしません(そもそも、そんな認識の人がいるかは知りませんが)。

何らかの新奇の説に触れた(経路は、ニュースで見たり人から聞いたりする)場合にやる事は、

  • twitterリアルタイム検索で検索して反応を見る
  • その分野に詳しい人を把握していれば、その人の見解を見る
  • 医学分野であれば、PubMedやCochraneなどを見る
  • 日本で研究されたものなら、J-Stageなどを見る
  • その分野の標準的な見解を見に行く
  • site:ac.jpやsite.go.jp等でフィルタして検索
  • 企業や大学の発表であればリリースを見て、そこから論文が辿れれば直接読む

こういう感じです。twitterは、研究者含め、その道に通じている人がたくさんいますから、その人たちがどう評しているか見ます。先行研究を紹介する人もいれば、論文にリンクを張ったり、英語論文であれば翻訳して検討してくれる人もいます。もちろん、直接英語で検索する(lang:enをつけて検索)場合もあります。海外メディアのほうが詳しい場合がありますからね。

twitterやブログなど、この人は色々知っていそうだ、という人のコレクションを持っておいて、この話題ならあの人かな、といった感じで見に行きます。もちろんこれは、先に書いた権威に頼る判断になりかねないので、必ず、その人自身がちゃんと最新の知見を参照するかを確認します。古めの知見からしかものを言わないような人は、コレクションから外します。

医学分野であれば、PubMedは当然見ます。薬剤や介入の効果の話題であれば、Cochraneライブラリを検索します。Cochraneは、複数の研究を統合し検討するメタ解析の研究が集まっていますから、重要です。日本で中心に研究されているようなものであれば、J-Stageを見ます。もし、何らかの疾病に対する効果を謳うようなものであれば、その疾病についてのガイドラインを見ます(比較的新しい証拠をまとめて検討している)。acやgoのドメインでフィルタすれば、それなりに専門的な見解に絞る事が出来ます。

企業や大学が発表したものなら、大概は直近にリリースが出されているはずですから、それを見に行きます。普通は研究内容の概要が書いてあるので、それを把握した上で、論文そのものを見ます。リリースにあたって都合良く切り取られているかも知れませんからね。

論文を見る際は、

  • 標本抽出法
  • 標本の割付
  • 効果研究であれば、PI(E)COの把握
  • 指標は何を使っているか。妥当性・信頼性への言及はあるか
  • 統計解析法
  • 先行研究の紹介
  • リミテーション(限界)の内容

この辺りを要点として捉えます。標本抽出は、外的妥当性に重要ですし、介入研究における割付は、バイアスの検討に繋がります。介入の効果を見ているなら、まず疫学で言うPICO(対象にどう介入したら誰と比べて結果がどう変わるか)をどのように捉えているかを検討します。臨床研究であれば、登録情報を検索します。科学では測りかたが重要ですから、どういう指標でもってデータを得ているか確かめます。医学であれば生体指標ですし、心理学であれば質問紙や行動指標、社会学なら調査票を用いて測定します。医学の指標では、代理指標として適切か等が重要ですし、心理測定尺度は標準化されているか、社会調査であれば、ワーディングなどを見ます。

統計解析法は、P値だけ書いて有意がどうこうとしか言っていないか、信頼区間を出しているか、多変量解析はどういう手法を使っているかを見ます。知らない手法であれば、手許の文献や関連論文を見ますし、それでも解らなければ、保留するなりします。必要に応じて、先行研究として参照されている論文も辿ります。

効果を見出したとか、関連があった無かった、といった事が話題になる場合があるので、著者がリミテーションをどう書いているかを必ず見ます。報道で紹介されたものであれば、記者の作文によってあたかも著者が効果を主張しているように書かれているが、実は論文では著者は慎重であった、みたいな事もあります。複雑な事に、リミテーションを書いている著者がSNSではニュアンスのある話をしている場合も考えられるので、そういう部分も見ます。

これらの検討の際に参照したWEBページは取り敢えずブックマークしておいて、後でまた参照出来るようにしておきます。場合によって、ページ名を概要にしたりします。

ここまで書いたような事を総合して判断します。あまりに荒唐無稽だったりすれば、まともそうな論文自体が無いので、その分コストは下がります。研究自体はきちんとされているが評価が定まっていない、といった情況のほうが検討は難しいです。それで、科学なる営みとしてはどういう位置づけであるか、が把握出来ますから、後は、それを紹介する人がどのように評価したり主張しているかを検討します。論文著者がリミテーションにおいて課題を書いていたり、少数の論文しか無いような情況であるのに、それがまるで確立された知見のごとく紹介していれば、その主張はニセ科学的であると評します。

ざっと書きましたが、こんな所です。ニセ科学を見抜くには、という文脈で書いていますが、大部分は科学としてはどうなのかの検討です。当然ですね。ニセ科学科学風非科学なのだから、科学としては、を確かめるのがほとんどを占めますので。

こういう検討をするのに、短ければ数時間ですが、長くて数ヶ月かかります。場合によっては、知らない分野の教科書を取り寄せて基本用語から勉強する必要があるからです。より具体的にやるならそうなってしまいます。そして、この手順を効率良く進められるようになるまでに、十数年かかっています。と言うよりは、こういう事を効率良く出来るようにするために十数年かけた訳です。

科学は細分化されていますが、方法的に科学一般に共通するものとして押さえておきたいのは、

  • 統計学
  • 指標の数量化の方法
  • 疫学
  • 科学の哲学

この辺りだと考えます(※言うまでも無く、これらそれぞれが関連しています)。統計学は、限られた標本からより広い集団(抽象的には母集団、実体的にはユニバース)に一般化するための理論的根拠を与えるものですし、データを集めるには、そもそもどのようにして測るか、の観点は外せません。何を測るためにどういう尺度を作り、どのように数量化していくか、を考えるのは肝腎です(測定尺度や尺度水準などの用語がキー)。疫学は、感染症の原因を確かめる検討から洗練されてきた方法で、要因同士の関連を見、また観察研究や介入研究等を実施して因果推論をおこなう分野です。今で言えば、COVID-19の罹患率とか致死率とか死亡率とか、そういった指標を検討する分野ですが、この分野を勉強する事によって、詳細のメカニズムはひとまず措いて要因間の関連や因果関係を検討する重要性を身に着けられます。

上では科学の哲学と書いていますが、これは、専門分野としての科学哲学だけを指すのでは無く、周辺の科学史科学社会学なども関連させて検討する意味として、野家啓一氏に倣って表現しています。科学と言っても、知見を確立させていくプロセスは社会に埋め込まれたものです(制度としての科学)。査読制度も、人間の行動が誤つ可能性を考慮した上で採用されているものです。それを踏まえていれば、ニュースで新奇の話が出た時にも、ちゃんと制度的なプロセスをクリアしたものなのかと冷静になれるでしょう。あ、科学のプロセスが社会的なものだからと言って、確立された知識の構造が社会的にどうこうという話ではありませんからね。念のため。

私自身は、いつもこういった手順で説を検討しています。だから、ニセ科学を見抜く能力が必要だとか、科学リテラシーを得る事でそれが備わるだろうとか、そういう話を見ても、すぐにその通りだとはなりません。実際、相当に面倒くさい事ですからね。準備に何年もかかって、具体的な検討も数時間から数ヶ月かかるものなのですから。しかも、流れてくる情報は大量で幅広く、よって関係してくる分野も広い訳です。だから私としては、もちろんニセ科学を見抜ける(信ずるリスクを低める、と言ったほうが良い)ようなスキルがあるに越した事は無いけれど、あまりそういう事を強く言うよりは、

物珍しかったり、広く社会に希望を持たせるような説が出てきても、それが科学のプロセスをちゃんとクリアしたものかはすぐに判らないので、取り敢えず放っておく

くらいの姿勢が良いのではないかと考えています。私も基本姿勢はこれです。その上で、興味のある事柄であれば調べに行く、といった感じです。時間は限られていますからね。