『過剰診断(overdiagnosis)の定義と過剰手術(oversurgery)/過剰治療(overtreatment)の用法:病理医と疫学者の見解の差異』についての考察

※先に書いておきますが、1万5千字近くあります

福島における甲状腺がん検診まわりの議論の流れで、2021年に日本内分泌・甲状腺外科学会雑誌に、過剰診断概念に関する特別寄稿が掲載された。

当該寄稿における主張の概要は次のようなものである。

  • 病理医は過剰診断を誤診の意味で用いてきた
  • その定義にしたがい、病理診断コンセンサス会議のメンバーは、過剰診断と過剰治療の症例は無かったと報告した
  • 福島における検診を過剰診断と指摘する主張がある
  • その主張は疫学的な意味における過剰診断を強調するものである
  • 病理医の立場から、これを過剰診断と呼ぶのは不適切であり、過剰検査と呼ぶべきである

これは、専門家によって医学における他分野での術語の用法変更が要求されたものであり、議論における重大な提言と捉えられる。そこで本記事では、坂本らの論考について詳細を検討する

以下、当該論考を単に寄稿と表現する。学会誌に掲載された特別寄稿である事を省略したものである。また、寄稿では番号を振ってセクションを分けているので、それにしたがい、言及する際は、セクションをセクション1、セクション2、などと書く事とする。引用文内の強調は引用者によって施される。

セクション1

内容

ここでは、病理医や細胞診の専門家にとって過剰診断とは、誤診の一型であると主張されている。詳しくは、本来よりも重篤な病態であると誤った判断すること(ママ)であると言う。

次に、疫学者からは異なる用法で過剰診断が使われる事が紹介され、福島の検診に関わる病理医らが

  • これまでに手術された中には過剰診断とされた症例は1例も含まれていない
  • 過剰手術(oversurgery)/過剰治療(overtreatment)と判断された症例はなかった

と判断した事が強調される。

考察

病理方面で過剰診断が誤診の意味で用いられるのは、文献を検索してみても認められる。 たとえば、

においては、誤診の表現としてoverdiagnosisunderdiagnosisが用いられている。

寄稿の主張に対する一つの反論として、もし誤診の意味で過剰診断を用いるのならば、単に誤診と言えば良いではないか、といったものが想定されるが、見かたによっては、いま参照した論文にあるように、誤診の形態を2つに分けるような場合に用いる合理的な理由がある、と考える事もできる。
もう少し詳しく検討すれば、この文脈におけるoverdiagnosisは確定診断における誤陽性、underdiagnosisは確定診断における誤陰性である、とも表現できるだろう。

他に資料を示す。県民健康調査検討委員会第5回、甲状腺検査評価部会の議事録である(以下、当該部会の議事録を、単に議事録とする)。

この議事録において、加藤良平副部会長が次のように述べている、※強調は引用者による

その過剰診断というのは、我々病理診断をやる病理医にとってはですね、がんじゃないものをがんと診断するというのを、そのOverdiagnosisというふうに言っている訳ですよね。

これは、疫学的な意味での過剰診断発生の可能性を指摘する渋谷部会員の発言を受けてのものである。ここで、病理医にとっては過剰診断は誤診の意味で用いるのが常識的であるように主張されている。

寄稿に対する意見で、ほんとうに病理医は誤診の意味で過剰診断を用いてきたのかと訝る向きもあるようだが、少なくともそういう用法があり、以前にその事が専門家から主張されてもいるのは事実と考えて良いだろう。もちろん、その用法がどのくらい、病理医集団にとって一般的であるのか、は不明である。それはたとえば、定番の教科書における用語集に載っているとか、病理医にアンケートして意味を問うてみるとか、そういう所で確認するのが必要である。

セクション2

内容

ここで、福島における検診を過剰診断であると主張する立場が紹介される。そこで用いられる過剰診断は、生命の予後に関与しない微小な癌を多数検出して,であるとされる。その立場の主張は、韓国での例を参照していると言う。

そして、そこでの用法は、病理医の立場に立てばとの前提から不適切であると言う。さらに、疫学的な意味合いのほうは過剰検査(検査過剰)と呼ぶべきであるとも主張される。

考察

このセクションで、検査それ自体を,過剰診断であると主張する立場と書かれている。この検査それ自体なる文の意味が取りづらい。前後の文脈から判断すれば、福島における甲状腺がん検診そのものが過剰診断であるのような主張を指していると推察できる。

しかるに、その部分にはMidorikawaらの論文が参考文献として挙げられている。

https://acsjournals.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/cncr.32426

その論文を見ると、福島の検診そのものが過剰診断であるとの主張はなされていない。過剰診断では無い場合の無症状発見extremely early diagnosis)でも害が生ずると書かれているからである。また、そもそも当該参考文献は、題にHarm of overdiagnosis or extremely early diagnosisと書かれているので、発見された全部が過剰診断であると言っていないのは明白である。その意味では的を外した評価と言える。

ただし、別の文献を参照すれば、実際に見つかった全てが疫学的の意味での過剰診断であると主張するものがある。高野らの著書である。

福島の甲状腺検査と過剰診断 子どもたちのために何ができるか

高野はこの本のあとがきで、次のように述べている。

そして、福島の子どもたちに起こっているのは間違いなく過剰診断であり、それ以外である可能性はありません。

これは文字通り、全てが過剰診断であると主張している。したがって、福島の甲状腺がん検診自体が過剰診断である、と解釈され得るような主張そのものは存在すると言えるだろう。

寄稿の著者はこのセクションで、誤診の意味での過剰診断を本来の過剰診断と表現している。これは明らかに不当な表現である。同じ術語が、ある専門分野の更に分化された所で違う意味を持たされる事はあるだろうが、以前から用いられてきたからという理由で、いっぽうを本来の意味、などと表現すべきでは無い。

もっと言えば、疫学的な意味での過剰診断の用法も、既に数十年前から使われているものである。たとえば、久道茂『がん検診のはなし』は1998年の本だが、そこには現在の疫学で用いられる意味での過剰診断が載っている。また、以前は誤陽性の意味で疫学方面でも過剰診断が用いられる事もあった。

科学の議論において重要なのは、現状でどの意味がスタンダードとして用いられているかだろう。

余剰発見

ここまで読まれたかたは、既に混乱が生じているかも知れない。寄稿でも過剰診断が多義的なまま使われているし、そこで言及されている文献等でもそうだからである。論者によっては、違いを明確にするために、

  • 過剰診断(疫学)
  • 過剰診断(病理)

などと表記する者もあるが、これもあまり上手いやりかたとは思われない。全く異なる意味を同じ語で表し、分野の違いをカッコで示すというのは極めて煩雑だし、面倒になってつけ忘れたら途端に解りづらくなって、一々前後を注意深く参照する必要が出てくる。やるなら、

  • どちらかの意味で統一して使う事を宣言する
  • 敢えて別の用語を充てる

このいずれかが適当であると考える。そこで本記事ではこれ以降、疫学的な意味での過剰診断、すなわち

症状や死亡の原因にならない疾病を診断する事

を、余剰発見と表現する。これは、英語でのoverdetectionの訳語として私が考えたものである。日本語では過剰検出や過剰発見などの語があったが、定訳は無いようなので余剰発見とした。過剰は誤診などを想起させるし(今の混乱を見ても解る)、検出だと非生物などの検査をも思わせるので、あくまで体内にある疾病を見つける事を示すものとして採用した。overdetectionについては、下記論文なども参照されたい。

これより引用する。

Overdetected cancers are ‘real’ cancers in the sense that they meet current pathological criteria for cancer diagnosis, but finding and treating them does not improve health outcomes. Such a diagnosis and the resulting treatment can cause serious lifelong harm, and overdetection is, therefore, considered the major downside to breast screening.

ちなみに、PubMedなどで文献を検索する際、overdiagnosisだけで無くoverdetectionでも検索するのをお勧めする。後者で表現する重要な論文もいくつもあるからである。また、overdiagnosisの概念をまず立て、その契機としてoverdetectionとoverdefinitionを設定するものもある。後者は過剰定義とでも訳せるもので、高血圧の診断や精神・心理方面での診断でクローズアップされる。甲状腺がん方面では、NIFTPの分類やIDLE概念の提唱などの議論と関わってくるだろう。つまり、今まで病気としていたものを病気で無いとする(疾患概念の変更)定義変更に着目したものと言える。これらを意識する事によって議論の見通しが良くなるし、実は病理医における過剰診断概念もこれらが念頭に置かれたものではないか(つまり誤診の話だけでは無い)、と考える事もできるだろう。先ほどの論文から再び引用しよう。

The term overdetection is increasingly accepted in the specific context of screening to distinguish it from overdiagnosis that occurs via other mechanisms, such as broadening disease definitions.

セクション3

内容

ここでは、福島県県民健康調査の概要が説明される。なお、甲状腺がん検診は、その調査の一環としておこなわれているものである。

このセクションでは、個別の症例における予後について楽観視できない事が強調されている。したがって、甲状腺がん検診(健康調査と書かれているが、検診をクローズアップしているのは文脈から明らか)の中止や縮小の決定もできない旨も書かれている。

考察

福島の健康調査自体は、健診(健康診査)と表現するほうが良い。検診はその一環としておこなわれているものと考える。

後半では、甲状腺がんの潜伏期間の検討や、検査縮小の主張を紹介している。

予後について慎重な立場を採る、つまり、転移や再発が生じないと考えない事自体は、臨床方面の専門家が安全側に立とうとするものとして当然だと思われる。もちろん、そもそも検診発見がんにおける予後の検討には疫学の知見が必要である。それへの言及がなされていないのは不足と言える。

セクション4

内容

ここでは検査と診断の違いが論じられている。

考察

冒頭の過剰診断が、もうどちらの意味で使われているか判然としない。一々全体を参照し、後のほうまで読んでみないと判らない(読んですら判らない)。先ほど指摘した通りである。閾値設定(カットオフポイント変更)は、誤診も余剰発見もどちらにも影響を与え得るから、単に基準変更で過剰診断が減らせると言われても、どちらの事かすぐには判らない。

このセクションだけを読むと意味が良く解らない、と言うか、なぜわざわざ検査と診断の違いを論ずるのか不明にも感ぜられるだろう。実はこのセクションは、後のセクションの主張への導入として位置づけられる。

セクション5

内容

ここで、病理医サイドからの希望が披露される。それは、多義的に用いられる過剰診断について、疫学者による用法の変更を求めるものである。提案としては、過剰診断の代わりに、

  • overexamination
  • excess examination
  • overtesting
  • 過剰検査

などが挙げられている。後半では、疫学者が病理医の声を顧みないというような主張と、理解と納得を得る事への期待が書かれている。

考察

希望と表現する割には、かなり強い主張をしている。言及したように、病理医が誤診の意味で用いた事を本来のなどと書いている。従来の、などで無く本来の、である。

また、いくつか代わりの語の採用を提言しているが、これは、疫学上の議論を全く無視したものである。

たとえば、overscreeningやovertestingは、既に定義されている語である。

上に提示した論文は、過剰診断概念や用語の歴史を紐解き議論を整理するに当たって、最重要の論文の一つだと私が考えるものである。引用する。

Overdiagnosis is also not synonymous with overtesting. Overtesting (sometimes referred to as overuse or overutilisation) can, but does not always, increase the risk of overdiagnosis, but the risk increases proportionately with the degree of overuse. 

明確に、overdiagnosisとovertestingは異なると書かれているのである。

しかも、上記論文でも説明されている私が採用したoverdetectionは多数の論文で採用されているにもかかわらず、言及すらされていない。これは、疫学における、がん検診研究の実際をほとんど参照していないのを示唆する。

別の論文を参照しよう。

これはovertesting関連の研究を総合的に検討するものだが、下記のような記述がある。

Potential harms from overtesting arise through misdiagnosis, false positive results, false negative results and overdiagnosis, where people are labelled as having a “disease” for a condition that would not have caused them harm if it were left undetected and untreated . 

つまり、明らかにovertestingとoverdiagnosisを別の概念として扱っている。使われかたとしては、医学的な意義の乏しい検査が闇雲におこなわれる事を指す、といった所であって、余剰発見のような限定的な意味とは異なっている。

寄稿の変更案の用語にexaminationやtestingを入れている事、セクション4で検査と診断の違いを説明している事から、余剰発見の意味を指す語で診断を使って欲しく無いのがうかがえる。しかるに、これは全く的を外した提言と言える。なぜなら、そもそも余剰発見は、

定義された疾患概念に基づいてゴールドスタンダードの検査によって正しく診断される

のが必要だからである。私が採用している余剰発見の発見も、診断によって疾病が発見されるという意味を指している。

がんを診断するには検査が必要だが、検査したからといって診断されるとは限らない。それは、寄稿の著者自らが書いたセクション3の説明からも明らかだろう。福島の検診でも、検査で悪性ないし悪性疑いとなった人が(確定)診断されていない事が取り沙汰される場合がある(たとえば、17回部会議事録)。そして余剰発見は、正診を条件として成り立つ概念なのである。

これまでを踏まえれば、単にdiagnosisからexaminationやtestingへの変更を提案するのは、積み上げられてきた疫学的な議論への無理解、またはそれを無視した乱暴なものである、と言えるだろう。意見交換や、わが国の疫学者の病理医の立場への理解と納得を期待したいなどと、一見すれば歩み寄った建設的な姿勢のようであるが、その実は、言及対象の分野でなされた膨大な議論を無視した一方的な要求と捉えられる。

先述のように、既に疫学で設定されている過剰検査(overtesting)は、医学的に意義が認められない検査が不必要に実施される、というような意味である。すなわち、余剰発見のほうが、より限定的な意味を持つ用語だと言える。論文でもoverdiagnosisと同義で無いと強調されているし、また、過剰検査によって誤陽性や誤診につながるとも指摘されている。より広く包括的な概念だと捉えられるだろう。

セクション6

内容

ここでは、oversurgeryovertreatmentについての言及がある。そして、余剰発見を契機におこなわれた手術を過剰治療と評価される事で、外科医にとっては,その手術・治療を全否定されたことになる。と主張する。

後半では、病理診断コンセンサス会議が不適切な手術は1例もなかった。と発表した事および、そこでのoverteatmentの用法が間違っているとの指摘を受けた事を紹介している。そして、その反論が的外れであると主張する。

考察

まず、overtreatment自体が多義的に用いられる場合がある。余剰発見を前提とした定義であれば、余剰発見の後に受けた処置となる。なお、便宜上、日本語の表現として過剰処置を採用する。

これと異なった用法としては、医学的に意義の無い処置一般を指す場合がある。その定義からは、たとえば、手術しないと確定診断できない疾病があるとし、手術した結果で良性腫瘍であったと判明したとすれば、それは過剰処置だと言える。もちろんここでは、その良性腫瘍は症状を起こしたりしないのが前提である。また、ウイルス性の風邪症候群に抗菌薬を与えるのも、この意味では過剰処置と言えるのだろう。先ほど紹介した最重要とした論文においては、この広い意味合いで用いられている。

本記事では、議論内容を無闇に広げないため、より限定的な用法、つまり余剰発見した疾病に処置をほどこす事を過剰処置とする。

寄稿の著者は、過剰処置であろうとの指摘に対して、その手術・治療を全否定されたことになる。と主張する。ここには、自然科学としての医学的な部分以外の、心理的や社会的の意味合いも含めた評価をされる事への反論も込められていると思われる。

確かに、福島における甲状腺がん検診実施を強く批判する中には、当該検診がいかに無意味で倫理に悖り、人権侵害であるかを強く言い立てる者もいる。

このような意見が声高に発せられれば、検診に携わる臨床医や病理医が、ある用語を使われた事だけをもって、医学的のみならず心理的社会的にも批難されていると捉えるのは、これは当然の事である。

実際には過剰処置なる概念・用語は、(検診の議論では)単に余剰発見後の処置を意味するだけの語であって、そこに医療者や意思決定者の方針や行動を否定する意味は込められていない。心情的には難しいかも知れないが、そこを押さえるのは重要である。したがって、寄稿の著者の言うような、overtreatmentが医療者の行為等までも全否定するような語である、との指摘は的外れである。そして、余剰発見後の処置としての過剰処置が無いとの意味で1例も無かったと主張する事はできない。病理診断コンセンサス会議が使うovertreatmentはガイドライン等の方針や手順に照らして妥当では無いとの意味であろうが、余剰発見後の処置を指摘している論者は、方針に照らして妥当であるという部分は否定していないのである。

私は以前、この議論における必要・不要などの語がそもそも多義的に用いられている事を指摘した。その記事に張るので、議論の整理に役立てて頂きたい。

検診は発見時に予後を確定できないので、それが余剰発見例かどうかも確定できない。したがって、処置をおこなった場合、処置しなければ予後が悪かったという意味での必要さを決める事ができない。だから、実際に処置が不要であった可能性が常に排除できない。しかし、不要である可能性を込みにして、つまり余剰発見のリスクを受け容れた上で検診は実施される。その事自体は、医学の限界を前提した論理として受け止めざるを得ないのである。

検診を実施する当事者に対して人権侵害などと言い立てて批難する者に極めて乱暴な論者がいる事には、私自身も批判的であり、実際に言及してもきた。しかし、だからと言って、疫学という専門分野で用いられてきた術語の用法をいたずらに不適切であると批判するのが妥当とはならない。そこは峻別すべき所である。

セクション7

内容

まとめ部分である。最初に疫学者の用例を示し、それが病理医や細胞診の専門家、外科医等が用いている語とずれているのを指摘し、熟慮を求めたいと言う。そして、その情況が、専門家のみならず受検者、県民・国民含め無用な誤解をふりまいていると主張する。その上で、フランクな意見交換をおこない統一見解の確立に向かう事を提案している。

次には、現状を踏まえた上で双方の経緯があるとし、学会の歴史等に言及しながら、善後策の検討を提案する。

最後に、

  • 従来疫学者が用いてきた過剰診断を過剰検査といいかえる
  • 過剰診断は,病理診断(組織診・細胞診)の誤診に限って用いること

この2点を強く提起する事で締めくくられている。

考察

まず一段落目の疫学者らはの部分、用例の所が的を外している。既に指摘したように、疫学で用いられる過剰診断、つまり余剰発見は、検査対象の設定が不適切なために対象を広げすぎていると彼らが考える検査などでは無い。あくまで、

それが症状や死亡の原因にならないような疾病を発見する事

を指す。そして先述したように、ここでの発見とは、診断によって疾病を有すると評価される事を意味する。

寄稿の著者は、病理医等の用法を考慮せず過剰診断を用いる事について、熟慮を求めたいと表現している。これは提案と言うよりは、苦言に近いものだろう。要するに、古い歴史を持つ自分たちの分野における用法を顧みるべきだ、と主張しているのだから。

その事は、病理医等の用法が考慮されないのが誤解をふりまいているなどとする表現からも明らかである。このような言及をしておきながら、そして病理医・細胞診専門家・外科医サイドと疫学者の間でのフランクな意見交換を行い,などと提案するのは、白々しいものである。

次の段落での、日本病理学会と日本疫学会の歴史に言及し、あまつさえ日本医学会加盟団体への加入順を強調する事は、科学の議論としては論外と言える。自分たちは6番目に加入し相手は92番目に加入したが自分たちから用語について言った事は無い、などとわざわざ主張しておいて、双方それぞれに言い分のあることは明らかとか善後策の検討を求めるなど、こちらも実に白々しいもの言いである。そのような事を言うのであれば、最後の2点を強く提起するのような主張になぜなるのか。しかも、これまで明らかにしたように、寄稿の著者らは、そもそも疫学における議論や用語の使われかたについてきちんと参照も整理もしていない。その上で歩み寄りを求められて、疫学者らが賛同すると考えているのだろうか。

全体的な考察

なぜ今頃なのか

寄稿が発表されたのは2021年である。過剰診断問題が取り沙汰されるようになってから、結構な時間が経っている。また、先に紹介した部会議事録の部会は2015年におこなわれた。そしてそれ以降の部会においては、過剰診断は主に余剰発見の意味で用いられている。なぜ最初のほうで学会として意見表明するなりしなかったのだろうか。問題に気づくのが遅かった、という事なのか。

それは総意あるいは多数意見なのか

寄稿の著者は7人で、いずれも病理医や細胞診専門医や外科医である。その著者が、あたかも病理医や細胞診専門医や外科医の総意であるかのように主張を展開している。果たしてそれは、当該の各分野においてコンセンサスが得られた主張なのだろうか。病理医の中に余剰発見の意味で過剰診断を用いる専門家はいないのか。アンケートを採るなどの調査研究はおこなったのか。

もし総意だとすれば、それを学会レベルで提言しないのは何故なのか。学会誌における特別寄稿に留まっているのは何故か。組織レベルで疫学関連学会に申し入れなどはおこなわないのか。

ここでいくつか資料を示す。

この論文は、病理学的見地からとの副題がついている。その本文では次のように書かれている。

過剰診断は基本的に“命にかかわらない”癌を発見することで,良性疾患を癌と診断すること(偽陽性)ではないとされているが,

明らかに、ここでの過剰診断は余剰発見を指しており、その用法に反対などはしていない(基本的にの所に含みを持たせてある風でもあるが)。

上記はそのものずばり、乳癌検診における過剰診断に対する病理学からの考え方なる題のQ&Aである。著者の森谷氏は病理の専門家。その回答で、

癌検診における過剰診断は,生命予後に影響を及ぼさない癌を発見してしまうことですが,

と書かれている。これも余剰発見を指して説明に用いている。

次は特に重要な資料である。

これは、後で言及する鈴木眞一氏の論文が掲載されている雑誌において、鈴木氏が特集の概要を説明しているものである。ここでは明らかに、過剰診断を余剰発見の意味で捉えている。韓国等の例に言及している所からも明らかである。また、疫学の専門家である祖父江氏による過剰診断への見解を得た事も書かれている。言うまでも無く、専門が疫学の祖父江氏が用いる過剰診断は、余剰発見の意味である。

このように特集を組んでいるのに、病理や細胞診、外科医方面は過剰診断を誤診の意味で用いてきた、などと主張するのを額面通りに受け取る事はできない。もしそれを主張し、また誤診の意味で過剰診断を用いるべきと考えているのなら、なぜ祖父江氏の論考を掲載したのか。もし寄稿の提言のような意見があるのなら、なぜ特集においてもそれを提言し、祖父江氏を批判するなり用法変更を求めるなりしなかったのか。この特集が組まれたのはそれほど前では無い。2018年である。

要するに、言うほど区別して使ってきていないのを示す証左と言える。これは、後でおこなう鈴木氏の論文の考察でも示す。

なぜ疫学の議論を充分に参照しないのか

セクションごとの言及で指摘したように、既にovertesting等の用語は疫学研究において設定されている。また、overdiagnosisと関連してoverdetectionやoverdefinitionなどの重要概念も使われている。それをしっかりと参照していれば、ただoverdiagnosisの代わりにovertestingを使う事など提案するはずが無い。提言における文言の強く提起は、提案や要望を超える強い主張である。

本当に誤診の意味だけで用いてきたのか

先に言及した専門誌の特集において、寄稿の著者の一人である鈴木眞一氏が、過剰診断の語を用いている。ここでは、当該論文を鈴木論文とし、そこでのセクションを鈴木論文セクション1、鈴木論文セクション2、というように表す。

鈴木論文では、何箇所も過剰診断の語が出てくるが、その意味合いは判然としない。たとえば、鈴木論文セクション1では、日本において過剰診断を経験した事やアクティブサーベイランス研究への言及がおこなわれ、福島の検診に関して、本来見つけないでいたものという意味で過剰診断と言っている。前半部を提言通りに誤診の意味と取れば、日本では1990年代に誤診を経験してきた事になるし、アクティブサーベイランスは誤診を防ぐための方略という事になる。しかも、後半での本来見つけないでいたものなる表現も意味が取りづらい。誤診であるのなら、がんで無いものとか、良性のものを、などと言えば良いはずである。

鈴木論文セクション2では、ラテント癌の説明の流れで過剰診断が出てくる。大きさや浸潤性の程度の話をしている。これを、そのままがんで無いものの発見の話をしているとは取りづらい。

鈴木論文セクション3、微小癌すべてが過剰診断としてとある。これを誤診とは取りようが無い。もしそうだとすれば、アクティブサーベイランスされる癌には誤診されているものも含まれるとでもしないと整合しない。

このように、そもそも臨床医、しかも寄稿の著者の一人が書いている論述ですら、用法が曖昧なのである。どの意味で使っているのか、読み直してみても判然としない。とても、病理医や外科医が誤診の意味でのみ用いているなどとは言えない。

そしてこの事は、寄稿の著者らの提言に言及する批判者への指摘にもつながる。つまり、批判者が鈴木論文に言及する際などに、病理医は過剰診断を誤診の意味で用いているなどと断ずる事はできない。そもそも曖昧に使われているものを、片方の意味でしか使っていないなどと言ってはいけない。そこに注意しておかないと、

言質を取ったかのごとく相手の用法を不当に決めつけ、批難しやすくする

このような都合の良い言及のしかたになる。

たとえば、病理医や外科医は誤診の意味でしか過剰診断を用いていない、だからそういう人が過剰診断が無いと言ったら誤診が無いという意味でしか無いといったような批判の展開である。もしその病理医や外科医が過剰診断を多義的に用いていた場合、この立論は破綻する。要するに、批判に都合よく対象の主張を組み替えてはならないのである。

寄稿における提言が、これまで過剰診断なる語が多義的に使われてきたし、自分たちも多義的に使ってきたから、いまからは分野横断的に用語を整理しよう、というようなものであれば、具体的な所で折り合わないにしても、一般的な提案としては同意できるし、建設的な議論となる余地がある。しかるに寄稿では、余剰発見の意味で過剰診断を用いるのは不適切であり、誤診の意味で用いるのを本来のなどと言って提言につなげていく。これは、病理医らの用法を説明するものとしても、整合性を欠くものであると言える。なぜ自らの使いかたについての整理を充分におこなう事無く、他の分野における一般的な術語の使いかたを変更させようとするのか。

提言で何をもたらしたいのか

寄稿では、用語が統一されていない事による誤解の広がりや混乱などが言われ、それを改善するために用法を揃える事が提言される。しかし、もし用語の表現を代えたとしても、問われている事は変わらない。つまり議論の構造は維持される。要するに、検診に携わった当事者、臨床医や病理医が問われているのは、

症状や死亡の原因にならない甲状腺がんが福島で発見されているのか

という事であって、用語を変更したとしても、この問いが無くなりはしない。寄稿の著者らは、単に用語を変えるのを提言するのみならず、これまで問われてきた所にも答えるべきである。仮に過剰検査と言い換えられたとしても、

福島の検診で過剰検査は起こっているのか

と問われ続けるのだから。