歴史修正主義をニセ科学に入れないと言ってはいるけれど

ニセ科学の具体的な話を書くのは、しばらくぶりな気がします。

これ、菊池誠が「歴史修正主義ニセ科学には入れません」って言ってたのが象徴的。

歴史修正主義ニセ科学には入れません」との主張を、菊池誠氏がおこなっている、と書いてあります。そして、それが象徴的であるとも。

では、何について象徴的と言っているか。

↑これを受けてのものなので、

、日本のいわゆる「ニセ科学批判」の人たちを考えると、正直なところそういう人権意識は希薄で、科学という確立された権威を理解できないバカを嘲笑する、という例がままないか、と懸念されます。

↑この部分に繋げて、

と書いているのだと思われます。意味がすぐに取りにくいものがありますが、おそらく、

菊池氏は、人権的な部分に触れずにいたいがために、意図的に歴史修正主義ニセ科学に含めないでいるのであろう

このような事なのであろうと思います。

では、実際に菊池氏は、どのような主張を展開しているでしょうか。

ホロコースト否定や南京大虐殺否定をことさらに「ニセ科学」と呼ばなきゃならない理由はないし、呼ばないほうがいいと思うよ。ニセ科学じゃなくたって、ダメなものはダメっていうだけの話じゃないですか。歴史修正主義のことは歴史修正主義と呼べばいいでしょう

↑いわゆる歴史修正主義と呼ばれるような主張を、敢えてニセ科学なる概念に含めないほうが良いのではないか、との主張。

「あれもこれもニセ科学」って言い過ぎるのは問題を曖昧にすると思います。重なるところはあるにせよ、ニセ科学陰謀論歴史修正主義・スピリチュアル・ニセ医学などはそれなりに分けておいたほうがすっきりするのではないでしょうか。

↑色々の種類の言説をひっくるめてニセ科学と呼ぶと、却って問題が曖昧になるのではないか、と。

。僕は「ニセ科学」のカテゴリーに歴史修正主義を含めませんが、そうすることによって「ニセ科学問題」を整理しやすくなるからです。僕はそのように問題を整理しています。

歴史修正主義ニセ科学に含めない事で、その語で指そうとする問題を整理しやすくなるだろうという意見。

このように、菊池氏は確かに、歴史修正主義ニセ科学に含めないと主張しています。引用しているように、意図的にそうしていると思われますが、その意図とは、

ニセ科学なる語で指す範囲を狭める事によって、議論が整理しやすくなる

という事のようです。これまでの菊池氏の言説から考えると、ニセ科学なる語で指そうとしているのは、主に自然科学領域の分野を装うものである、と思われます。ですから菊池氏は、

これらのものを、ニセ科学には含めていないようです。

菊池氏のこの考えかたは、それなりに整合的です。科学と呼ばれるものの内、いわゆる自然科学領域に限定して、そのような分野を装うものをニセ科学と表現し批判しよう、というのは、徒に議論の範囲を広げて、論点がぼやけてしまうのを防ぐ意味で、合目的的であると言えます。その観点から言えば、上記に箇条書きしたようなものはそれぞれ、すぐにニセ科学とは呼ばれない事となります。※それでは狭すぎる。もっと概念を広げる事も出来るだろう、との指摘もあるでしょう。それは後で書きます

では、ニセ科学と呼ばれないものは放っておいて良いのか、という批判が出てくるでしょう。冒頭で紹介した意見も、そのような含みがあるように思えます。つまり、ニセ科学なる語によって色々の言説に焦点を当て批判する、という活動をおこなった場合、それ以外の問題を相対的に軽視している、と見えるのでしょう。

しかるに、少なくとも、

問題を整理するためにニセ科学かどうかを振り分けている

との主張から、他の問題を軽視したり擁護しているとは導けません。また仮に、具体的にそれら問題を軽視・擁護しているような意見があったのだとしても、それと、整理のためにニセ科学と呼ばない事にした、という認識が結びつくとは限りません。問題の整理は適切、かつ別の問題について的外れな主張をする、のもあるからです。的外れな主張を補強したいがためにこのように整理した、は(即座には)成り立ちません。

菊池氏はたとえば、陰謀論について、次のように主張しています↓

例えば僕は9.11自作自演説に相当関わって、陰謀論者たちと直接対決もしましたが、それでもあれは僕にとって「ニセ科学の周辺問題」であって「ニセ科学問題」ではないんですよ。

↑このように、菊池氏は陰謀論を、ニセ科学そのものでは無く、その周辺問題と位置づけています。もちろんここでの陰謀論とは、実際には無い陰謀を主張している言説を指します(あるいは、主張に適切な証拠が伴っていないような言説)。

思うに、陰謀論やカルト宗教などは、それら一般をひっくるめてニセ科学と表現するには、意味が広すぎるのでしょう。これが、

陰謀論やカルト宗教の活動にニセ科学が使われる

といった評価をされる事ならあるでしょう。たとえば、陰謀をおこなうに際して、現代の科学・科学技術では実現していないような装置や兵器を用いた、と言ったり、カルト宗教が主義主張を尤もらしく見せるために、いかにも科学っぽい(が科学で無い)何かを見せつける、といった具合に。しかし、だからといって、陰謀論ニセ科学、カルトはニセ科学、といった一般的な主張は出来ない訳です。

菊池氏は、ニセ科学や周辺問題を含めて捉える立場として、懐疑主義などの語があると主張します↓

ニセ科学歴史修正主義をまとめて語る言葉はあるので、まとめて批判する時にはそういう言葉を使えばいいわけです。たとえば「懐疑主義」など。

実際、懐疑主義なる語は、クリティカル・シンキングなどのテキストにおいて用いられ、ニセ科学疑似科学)も含めた広い範囲の言説が、批判的検討の射程に入っています(たとえば、不思議現象と表現する本もあります)。もちろん、その語自体も、哲学的に用いられてきたものでもあり、どう意味を捉えるか、といった問題もありますが、ここではひとまず措きます。重要なのは、ニセ科学なる語を狭く用いたとしても、その周辺問題も含め批判的に扱う立場や用語が既にある、という所です。※菊池氏の用法はおかしい所がありますが(https://twitter.com/kikumaco/status/1108540303852494848懐疑主義なる認識的立場と、懐疑主義が射程とする言説群とを混ぜている)、言いたい事は理解できますので、措きます

菊池氏は、はっきりと、歴史修正主義を擁護してはいない、と主張しています↓

。だからといって、僕が歴史修正主義を擁護しているわけではない

↑つまり、ニセ科学の語で指す範囲を狭くしているように思えても、それでニセ科学外のものを擁護しているとは言えない、という事です。それは尤もな話です。ある語の範囲をこう定めた、という話があったからといって、そこから、その外のものを軽視する、とすぐには言えません。

もし菊池氏を批判するならば、

  • ニセ科学の語の定めかたが明らかにおかしい事を分析する
  • 実際に歴史修正主義を擁護した具体的意見を指摘する

こういった所を採り上げておこなうべきでしょう。前者は、科学の実践はもとより、科学史や科学哲学も含んだ概念設定の問題であり、後者は、直接的な証拠を挙げての意見の検討です。それがきちんとなされれば、なるほど確かに歴史修正主義を擁護しているようだ、と納得もされるでしょう。しかし、問題設定のために語の範囲を狭めに定めた事をもっては、それら(擁護なり軽視なり)は指摘できません。

菊池氏は、具体的な歴史修正主義の例を挙げて、次のような意見を出しています↓

代表的な歴史修正主義というとホロコースト否定、南京大虐殺否定、従軍慰安婦否定といったあたりでしょうけど、そういう主張は全部どうかしてると思いますよ

↑もちろんこれは、具体的な言説に対する批判的言及であって、批判対象の言説に対する具体的言及ではありません。後者は、学術的な資料などを用いる、より難しい作業を伴います。その事についても菊池氏は書いています↓

↑私は、この菊池氏の意見に、全く賛同するものです。特に、。「ニセ科学」とはたしかに近隣の話だけど「受け持ち」が違うというのが重要な部分です。

たとえば、私は歴史修正主義については、ほぼ語る事がありませんが、それはまず、しっかり語るだけの知識が無いからです。自分は別の所にリソースを割き、注力しています(初期におこなっていたのは、水伝やゲーム脳への批判)。歴史修正主義などの言説をどうでも良いなどとは全く思っていませんが、かといって、そこを不用意には語れない訳です。他に、政治や経済については、あまり語らないようにしています。

もちろん、リソースを割く割かないが、問題の重視・軽視の顕れではないか、との指摘を受けるかも知れません。確かに、関心の度合いによっている、のはあるでしょう。しかし、リソースは有限ですので、どうしようも無いものがあります。だから、歴史修正主義を批判しつつ、相対的にニセ科学への言及が手薄な論者がいても、ニセ科学問題を軽視している、などとは思いませんし、むしろありがたいと考えます。菊池氏の言葉を借りれば、受け持ちが違うのですから。

ところで、菊池氏は比較的、政治や経済の問題について、積極的に語っているように見えます。そこを批判的に検討されているのも見かけます。それは大いにやれば良いと思います。受け持ちを逸脱して分野外の事について適当を言っているではないかと、徹底的に批判すれば良い。ただしそれは、具体的発言に基づいて、丁寧におこなわれるべきです。

私自身は、菊池氏には以前より賛同してきましたが、最近では批判も結構おこなっています。けれど、具体的に批判されてしかるべきと思われる主張があったとしても、他の部分も、そのおかしな主張と結びついてなされているのだ、と判断するのは、慎重におこなうべきでしょう。もしかすると、実際にそうであるのかも知れませんが、それは、対象の内心も絡んでくる複雑な所なのですから。

最後に、ニセ科学の範囲について。

先にも書いたように、おそらく菊池氏がニセ科学の語で対象としているのは、主に自然科学領域に関連する言説であると思います。あるいは、もっと一般的な所に目を向けると、実験や観察によって得られたデータを定量的に解析する、という意味での実証科学まで広げられるかも知れません。そうすると、心理学や社会科学なども射程に入ってきます(覆う、という意味ではありません)。血液型性格判断などは、血液型なる生物学的要因に関わる言説ではありますが、主張の検討には、パーソナリティ心理学や社会心理学などの、観察データも含めた解析をおこなう広い領域が重要です。

また、そもそも科学の語を、もっと広く、学問一般と捉えるのも可能でしょう。そうすれば、実証的方法を採らない分野であっても、当該分野にスタンダードな方法と手続きがあるならば、それに逸脱しておきながら正当であるかのごとく主張する言説を、ニセ科学と評する事は出来るでしょう。

しかし、そこまで広く範囲に入れると、〇〇学とつくあらゆる分野について、関連する虚偽の主張をニセ科学と表現できます。ですから、それがいわゆる科学なる語に対して多くの人が持つ印象や思い浮かべる内容とどれだけ合致するか、の問題が出てきます。菊池氏が、あまり広げると却って曖昧になるのでは、と言っているのは、この辺りを想定してのものでしょう。たとえば、哲学の標準的な知見から逸脱した内容を正統や正当のごとく言うのを、ニセ科学であると評されて、確かにニセ科学だそれは、と看做されるかどうか、といった問題です。

これらを踏まえると、歴史修正主義的な主張は、確立された歴史学的方法とそれによって得られた知見に反し、かつ反していないように主張されているものである、と捉え、ニセ科学と評す事も出来るのかも知れません。しかしそれは、科学一般の持つ構造や社会的位置づけ、歴史学なる分野の具体的な方法と手続きのありかた、等を総合的に検討して判断する事であって、分野のエキスパートがおこなうべき仕事であると考えます。そういった仕事を経て、他のものをニセ科学と言いながら歴史修正主義ニセ科学に含めないのはおかしい、と主張されるのであれば、それは説得力を持つでしょう。もちろんその場合でも、自分は自然科学方面のものに限定してニセ科学と呼ぶ、と返されるかも知れません。それはそれで、一つの見解です。

批判するにしても賛同するにしても、ここで書いたような所を踏まえておこなわれなければ、建設的なものになりにくいのではないか、と考えます。

EBMとオッズ

EBM

産科医の室月淳氏が、twitterで次のような発言をなさっていました。

.しかしあたらしい診断学ではこの過程が数学モデル化されており,これがエビデンスベイストメディシン(EBM)といわれるものです

端的に言って、この説明は誤っています。

このように、これが○○であるといった表現をおこなう場合は、それ以前の文章が、○○なる語が持つ特徴を上手く要約している事が必要です。で、上記引用部においてそれは、

あたらしい診断学ではこの過程が数学モデル化されており,これがエビデンスベイストメディシン(EBM)

このようです。つまり、EBMなるものは、それまで経験的におこなわれてきた臨床の過程を数学モデル化したものである、という訳です。しかるにこれは、EBMの説明としては、大きく的を外していると言えます。

では、EBM概念が出てきた分野である疫学のテキストでは、どのように説明されているでしょうか。いくつか引用してみましょう。

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根拠に基づく医療(evidence-based medicine)は,個々の患者の医療判断の決定に,最新で最善の根拠を良心的かつ明確に,思慮深く利用することである。
根拠に基づく医療の実践とは,個人の臨床的専門技能(clinical expertise)と,体系的研究から現在利用可能な,外部の臨床的根拠(external clinical evidence)とを統合することを意味する。

共にP2より引用。

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根拠に基づく医療(EBM)とは,「一人ひとりの患者の臨床判断にあたって,現今の最良の証拠を,一貫性をもった,明示的かつ妥当性のある用い方をすること」である.

P1より引用。なお、この箇所は、下記文献よりの引用。

www.bmj.com

Evidence based medicine is the conscientious, explicit, and judicious use of current best evidence in making decisions about the care of individual patients.

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根拠に基づいた医療(evidence-based medhicine:EBMは,臨床疫学を患者の診療に応用することを意味する最近の用語である。これには臨床上の疑問を定式化し,それらの疑問に関する最も的確な臨床研究を選択し,その情報が臨床決断のエビデンスにしてよいほど信頼できるものかどうかを吟味し,そして実際にその情報を患者に適用するという一連の作業が含まれる。

強調は原文通り。P3より引用。

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これらの説明を見ると解るように、EBM(臨床的根拠に基づいた医療)とは、個々の臨床にあたり、その時点で得られている最新で最良の臨床的根拠を適切に適用するという、一連のプロセスを指す語である、と言えます。そして、そこでの臨床的根拠は何か、どのようなものを良質な根拠であると評価するか、といった所を議論していく訳です。

ここまでを踏まえて、再度、室月氏の説明を見てみます(少し長めに採ります)。

,いままで医者は臨床のなかで経験的に身につけてきました.しかしあたらしい診断学ではこの過程が数学モデル化されており,これがエビデンスベイストメディシン(EBM)といわれるものです

これは明らかに、サケットやガイアットが提唱した意味でのEBMを、適切に説明していません。先に見たように、EBMとは、その時点で得られた最新・最良の臨床的根拠を個々の患者に適切に適用していくプロセスです。しかるに、室月氏の説明は、数学モデル化という所に着目しているに過ぎません。これでは、根拠の質を検討する際に考慮される部分ではあっても、臨床的方法の一連のプロセスであるという事を、全く説明出来ていません。

オッズとオッズ比

また室月氏は、感度や特異度などに関係する指標について、次のように説明します。

.検査陽性のときは,うたがい疾患の事前確率(正確にはオッズ比)に陽性尤度比を乗じてその事後確率が求め,逆に陰性のときは陰性尤度比をかけます.

原文ママ)この部分も間違っています。

いま考えているのは、検査を実施して陽性になった後の、病気を持っている確からしです。計算のしかたは、

\frac{病気の人の割合(全体が基準)}{病気で無い人の割合(全体が基準)}\times\frac{感度(病気の人が基準)}{誤陽性割合(病気で無い人が基準)}=\frac{陽性で病気の人の割合(全体が基準)}{陽性で病気で無い人の割合(全体が基準)}

こうです(\frac{感度(病気の人が基準)}{誤陽性割合(病気で無い人が基準)}陽性尤度比と言います)。ここで、

\frac{病気の人の割合(全体が基準)}{病気で無い人の割合(全体が基準)}

\frac{陽性で病気の人の割合(全体が基準)}{陽性で病気で無い人の割合(全体が基準)}

この2つの量を見ると、起こる割合を起こらない割合で割るものとなっています(後者は、陽性全体を分母とした時の病気の人の割合から考える)。つまり比です。割合を確率と読み替えると、

起こる確率と起こらない確率の比

と言えます。そして、確率の用語では、このような概念をオッズと呼びます。

月氏の発言を再び見ます。

.検査陽性のときは,うたがい疾患の事前確率(正確にはオッズ比)に陽性尤度比を乗じてその事後確率が求め,逆に陰性のときは陰性尤度比をかけます.

強調を施した部分をご覧ください。オッズ比と書いています。私はすぐ上で、オッズとは

起こる確率と起こらない確率の比

の事であると説明しました。そして室月氏は、オッズ比と書いています。これで、

\frac{病気の人の割合(全体が基準)}{病気で無い人の割合(全体が基準)}

を指している訳です。ここが間違いです。

オッズとは、ある事象について、起こる確率と起こらない確率との比です。だからオッズ比は、そのまま、

起こる確率と起こらない確率の比と、起こる確率と起こらない確率の比、との比

の事を指します。要するに、オッズとオッズ比は別物なのです。

オッズ比は、疫学における症例-対照研究などで用いられる指標です。たとえば、喫煙と肺がんとの関連を論ずる場合、肺がん患者とそれ以外とにそれぞれ着目し、

\frac{喫煙者の割合(肺がん患者が基準)}{喫煙者以外の割合(肺がん患者が基準)}

\frac{喫煙者の割合(肺がん患者以外が基準)}{喫煙者以外の割合(肺がん患者以外が基準)}

上記2つのオッズを計算し、この2つのオッズの比、つまり

\frac{喫煙者の割合(肺がん患者が基準)}{喫煙者以外の割合(肺がん患者が基準)}\frac{喫煙者の割合(肺がん患者以外が基準)}{喫煙者以外の割合(肺がん患者以外が基準)}の比、を取ります。これが(曝露の)オッズ比です。

結局、室月氏は、オッズオッズ比という別の指標(後者は前者同士の比)を混同して、正確にはオッズ比と書いているのです。

オッズ比の語を見たままで考えると、オッズという比(比の一種であるオッズ)と捉えそうにもなりますが、実際に、オッズという比と、オッズという比、の比を取った指標があり、それをこそオッズ比と呼ぶのですから、このような誤記はすべきではありません。