伊勢田哲治氏による、福島における甲状腺がん検診が《ヘルシンキ宣言》に照らして《人権侵害》にあたるかの検討。および、それの見られかた

伊勢田哲治氏による菊地誠氏への批判

科学哲学や倫理などを専門とする哲学者である伊勢田哲治氏(伊勢田 哲治 - 研究者 - researchmap)が、物理学者の菊池誠氏による主張、

福島における甲状腺がん検診は、ヘルシンキ宣言に照らして人権侵害である

を、実際にヘルシンキ宣言を引いて検討しておられます。

blog.livedoor.jp

人権侵害とは、日常的にも用いられる表現ではありますが、いまのような議論においては、より人文・社会科学的な知も踏まえてきちんと考えるべきものだと思います。また、ヘルシンキ宣言が、具体的にどのような所まで許容し、または禁止しているか、も精細に検討する必要があるでしょう。その意味で、倫理も専門とする伊勢田氏による考察は、興味深いものだと思います。菊池氏は、採り上げられている意見を主張の柱としているのだから、伊勢田氏の指摘に、明確に反論出来るはずです。

伊勢田氏による批判は、それ自体をよく検討すべきものだと考えるとして、ここから採り上げるのは、伊勢田氏の記事に対する反応です。

伊勢田氏の記事への反応

↑キクマコさんが使った「人権侵害」の言葉に視野狭窄な 「甲状腺検査がヘルシンキ宣言に違反するか否か、人権侵害と言えるか否かの検証」 としかわたしには読めません。

↑伊勢田氏の指摘を、視野狭窄と表現し、具体的な検討等はおこなっていない。

twitter.com

過剰診断となるスクリーニングはヘルシンキ宣言違反となるか、についてきくまこさんの記事と照会しながら検討したブログを拝見しました。どう言えばいいんでしょう。いろんなところで???となっております。

越智先生の記事でも思ったけど、やはり健康見守りのための検査のデータの二次利用、観察研究、介入なし、と捉えられてしまうんですかね。すでにあるデータを利用する形の後ろ向き解析にはなっているけど、その観察手法に問題があることがわかってきていて、それが現在進行形。本当に問題なし?

↑伊勢田氏は、菊池氏の主張はヘルシンキ宣言なる文書に照らして妥当かと具体的な検討を加えているのであって、

伊勢田氏自身による、福島での甲状腺がん検診の倫理学的評価

をおこなっているものでは無い。別な話なので、本当に問題なし?などという疑問自体が的を外している(伊勢田氏は、検診が問題無い、などとは言っていない)。

↑こちらの意見は、幾らか建設的。しかし、

人権侵害、ヘルシンキ宣言違反という用語の使い方や断定的な部分を修正すれば、

と書いているが、そもそも、断定的な意見こそが菊池氏の主張のコアの部分なのだから、そこを修正するとなると、主張全体を変更せざるを得ない。菊池氏や高野氏は、ヘルシンキ宣言に拠って人権侵害であると(検診に関わる諸々を)批判しているのであるから(参照⇒◆Welcome Page ◆福島の甲状腺がんの過剰診断―なぜ発生し,なぜ拡大したか―)。

過剰診断の理解がアレな人達に利用などと言っている。利用も何も、伊勢田氏の指摘が適切であるのならば(そうで無いのなら、具体的に反論をおこなえばよろしい)、どんな立場であれ、それを言及したり紹介したりする事に、どうこう言う筋合いでは無い。着目している人たちが、余剰発見含めた検診の論理を解っていないのであれば、それを具体的に検討・批判すれば良いのであって、その人たちが伊勢田氏の論に言及しているのを利用などとただ言うのは、物事をこちらかあちらかで考えているのを示している。

伊勢田氏の指摘が妥当であるのなら(繰り返すが、妥当で無ければ、具体的に反論をおこなえばよろしい)、

確かに菊池氏の主張は適切で無い所がある。そこを批判されるのはしかたが無い

と何故ならないのか。

菊池氏に修正を促し、主張を精密にする事を援ける

方向に何故行かないのか。

確り評価する事

先にも書きましたが、あちらかこちらかとか、あらかじめ持っている主張や信念に合わせるような読みしか出来ない人がいる、という事です。

もし菊池氏の主張が妥当だと思うのなら、それこそ、ヘルシンキ宣言を詳細に引いて検討し、論を組み立てれば良い。もし伊勢田氏の論考に甘い所があるのであれば、そこを採り上げ、具体的に検討・批判をおこなえば良い。そういう話でしょう。それもせずに、利用されるとか、そんな事を考えるからいけないのです。

実際、私は伊勢田氏の記事の、検診の疫学に関わる部分の問題のある箇所に気付き、直接コメント欄で指摘してきました。今の所は修正されていませんが2019年9月2日追記:伊勢田さんの記事に、修正が入れられました、私が指摘した所は、

検討対象が主張している事を捉え損なっている

という意味でクリティカルなので、早く直されるべきだと思っています。伊勢田氏が仰るように、ヘルシンキ宣言を参照しての検討という意味では本筋でなかった(伊勢田氏の記事コメント欄を参照)のは確かですが、別筋での議論の基盤および、批判対象解釈の誤りに関する部分だからです。

前節で紹介した人びとは、こういった読み込みも碌にしていない訳です。もう少し、きちんと検討なさってはいかがですか。

医師も誤つ過剰診断

business.nikkei.com

がんは無症状の内に、見つけるのが早ければ早いほど良いという信念を正し、がん検診がもたらす害などについての正確な知識を伝えようとする試みは、良いと思います。しかしながら残念な事に、本記事には、明確な誤りがあります。

 1つ目は「過剰診断・過剰治療」です。過剰という言葉が入っている通り、本来は不要だったのに検診を受けたことで生じてしまったものです。

 具体例を挙げましょう。例えば、乳がん検診で、マンモグラフィー検査という乳房をレントゲンに撮る検査を受け、がんを疑うようなしこりが見つかったとします。すると、今度は「病院で精密検査を受けてください」ということになり、医師の診察を受けます。同時に採血検査、超音波検査、MRI(磁気共鳴画像)検査などを行います。その結果、「まずどう見ても良性なのでここでおしまい」となることもあれば、「悪性の可能性があるため、針生検をしましょう」となることもあります。針生検では、怪しいしこりそのものに針を刺し、しこりの成分を1mmほど取ってきて、顕微鏡でがん細胞やがんの組織がないかをチェックします。

 その結果、もしがんの診断だったら手術や抗がん剤治療へ進みますし、がんではなかったら「大丈夫でした。よかったですね」で終わります。

 さて、もし検診をしていなかったらどうなったでしょうか。病院で受診することはなく、従っていろいろな検査はしないでしょう。生検という、針を刺して傷をつくる検査もしなくてよかったことになります。

 これが、過剰診断です。ここまでならまだよいのですが、「やはり悪性が否定できない」として、手術になることがあります。メスを入れ、手術をした結果「いやあ、良性でした。よかったですね」と言われることもあるのです。これは、人によって受け取り方が大きく変わるところでもあります。「ラッキーだった」と思う人がいる半面、「それならば最初からすべて不要だったのではないか」と思う人もいるでしょう。

この過剰診断の説明の部分です。もう少し絞って引用します(強調は引用者)。

 その結果、もしがんの診断だったら手術や抗がん剤治療へ進みますし、がんではなかったら「大丈夫でした。よかったですね」で終わります。

 さて、もし検診をしていなかったらどうなったでしょうか。病院で受診することはなく、従っていろいろな検査はしないでしょう。生検という、針を刺して傷をつくる検査もしなくてよかったことになります。

 これが、過剰診断です。ここまでならまだよいのですが、「やはり悪性が否定できない」として、手術になることがあります。メスを入れ、手術をした結果「いやあ、良性でした。よかったですね」と言われることもあるのです。これは、人によって受け取り方が大きく変わるところでもあります。「ラッキーだった」と思う人がいる半面、「それならば最初からすべて不要だったのではないか」と思う人もいるでしょう。

つまりここでは、過剰診断を、

  • 検診の結果、がんで無かった場合に
  • 検診に伴う生検や手術は
  • 過剰診断であった

このように説明しています。が、間違っています。

現在の検診の議論における標準的な定義では、過剰診断(overdiagnosis)と言えるには、

がんが見つかる事

が必要です。つまり、

検査の結果、がんでは無かった

という時点で、それは過剰診断ではありません。過剰診断とは、

それによる症状が出たり、それによって死んだりしないような疾病を見つける事

です。対して、中山氏が過剰診断だと説明しているのは、実際には

偽陽性による害

です。偽陽性(false positive)とは、

疾病が無いのに、疾病疑いの判定をおこなう

事を指します。

偽陽性の害と過剰診断とを混同するのは、医療者でもしばしば見かけます。たとえば、次のリンク先のような、公衆衛生の専門家向けの文書においても、偽陽性と過剰診断の区別について書かれています。

www.phrp.com.au

ここには、

Overdiagnosis is not a false positive

という節があるのです。

過剰診断の概念は、疫学、特に臨床疫学の、更に検診や健診に関わる分野において議論されているものなので、臨床医がそれについて知らない場合があるのは、致しかたが無い面もあるのかも知れません。しかるに、中山氏は記事で、

 ここを書くにあたり、私は非常に多くの論文と医療ガイドラインを読み情報をあらためて精査し、市販のがん検診について書かれた本10冊以上に目を通すことで今世に流布している意見を把握しました。さらには、京都大学大学院医学研究科の健康情報学の教授に意見を仰ぎ、ディスカッションをした上で監修をしていただき、医学的な信頼性を担保しました。そこに、がんを専門とするいち医師である私の意見を付記しています。

と書いています。つまり、がん検診に関する論文・ガイドライン・書籍、等々を読み込んで記事(の元になった本における記述)を物した、と主張している訳です(京都大学大学院医学研究科の健康情報学の教授とは誰なのでしょうね)。したがって、

  • 検診とは専門分野が異なる医師である
  • 以前には過剰診断は別の意味で用いられる場合もあった

このような見かたは通用しませんし、させてはなりません。前者については、自ら、検診分野の文献によって勉強をした、と言っていますし、もしそうであるのなら、最新の標準的知見と議論を押さえているはずなので、後者のような言い訳も出来ません。全く、不勉強の誹りを免れないものでしょう。

過剰診断は、がんを見つける事そのものが害であるという意味で、とても特殊な考えかたです。陽性なのに実はがんで無かった偽陽性とは、質的に異なっています。だからこそ、検診の害として注目され研究されています。そのような重要な概念について、誤った知識をマスメディアを通じて広く発信してしまうのは、実に残念な事です。それどころか、単行本を出して同じ内容を発信してもいるのです。これは重大です。語の意味が共有されていなければ、実りある議論をしようが無いではありませんか。

なるだけ早く、修正などがなされるのを望みます。

過剰診断(余剰発見)や偽陽性(誤陽性)については、以前に解説記事を書きましたので、そちらも参照ください。

interdisciplinary.hateblo.jp

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