害と便益の比較の難しさ

検診のはなし。

検診を推奨すべきか否かは、正味の便益(net benefit)が認められるかで左右される、という事をこれまで何度も書いてきました。もちろんそこでは、

害と便益との比較

が必要です。でも、これが難しい。何故ならば、そういう比較では、

死亡減少の効果と、死亡以外の害の増加を較べる

事になるからです。これがたとえば、

検診しなければ1人死亡するが、検診したら3人死亡する

のであれば、話は単純です。検診が死亡を増やすのですから当然、総合的に死亡を減らす効果は得られません。いくら他の、心理的不安を解消するなどの作用があったとしても、その検診を勧めようとはならないでしょう。死亡という最も重大な害が増えるのですから、相対的に解りやすい。

ところが、がん検診の一般的な議論では、先述したように、死亡減少効果と、死亡増加以外の害の程度とを比較します。より具体的には、

  • n人に検診した場合に
  • b人の死亡が回避され
  • o人が余剰発見され
  • c人に検査や処置による併発症や後遺症や審美的損害が生じ
  • f人は誤陽性となって心理的不安等を受ける

上記のような結果を比較します。すなわち、

死亡減少vs余剰発見増加、併発症や後遺症発生、誤陽性増加

のような図式です。この比較は簡単ではありません。いっぽうは死亡という、まさに究極の害の回避なので、それは心理的にも社会的にも、他の害と較べようが無いものだからです。だから主張としては、

数万人に検診して1000人が余剰発見されようが、1人の命が救われるのならば検診はすべきだ

といったものもあり得る訳です。他の人が余剰発見されてもそれで死ぬのでは無いから(処置が死亡を増やさない前提)、誰かが助かるのならやって良い、という考えかた。

当然の事ながら、実際の比較は程度問題です。評価は集団的にしか出来ないので、何人に検診したら何人が助かって、何人に害が及ぶ、と比較するしか無い。その上で、

1人の死亡回避と、何人の(死亡以外の)害が釣り合うか

この極めてシビアな見かたをせざるを得ません。どんな検診でもです。検診をすべきだと言う際に、命が救われる可能性があるのならと定性的な事をしか主張しない人は、この観点を無視しています。そして福島の甲状腺がん検診の議論は、まさにこの観点が必要です。30万人に検診をした、もしかしたら数人は救命されたかも知れない。では、その事をもって、検診の実施は妥当であったと言えるのか。検診を進めるべきと考える人は、少なくともその問いには答えられねばなりません。

論者によっては、議論におけるこのシビアさに勘付く人もいます。何十万人に検診して数人を救命出来る、という検診が推奨しようが無い事を判っている。だからそういう人は、

死亡回避の効果の議論から話を逸らす

方向に行きます。そして、

死亡回避以外の効果に議論を持って行く

のです。具体的には、QOLの改善を主張します。死亡回避に着目すると、その効果の総量が大きくなりようが無いため、それ以外の効果に着目する事で、総量が大きくなるように仕向けるのです。その観点が、QOL改善の効果です。

ちなみに、私はQOL改善と表現せず、低下の抑制と言います。検診はQOLが下がる前(症状が無い)に介入するもので、下がっているQOLを上げる目的でおこなうのでは無いからです。

福島では、検診によって数百人に甲状腺がんが発見されました。そして、成人の知見から、死亡回避の効果が認められない(1000人に1人などいったレベルでは無い)であろう事は判明しています。ですから、そこに勘付いた人は、QOLに着目します。対象が小児だから余命が長く、早く見つければQOL低下が抑制されるだろう、と考える訳です。またそのためには、

余剰発見の数が小さくなくてはならない

のが条件です。余剰発見は症状をもたらさない疾病を見つける事なので、効果と両立し得ず(対象の疾病によりQOLが低下しない)、したがって、効果の総量も大きくなりようが無いからです。先にも言った、小児は余命が長いという要因も、余剰発見が少ないであろうという論を補強するでしょう。実際、その傾向はあると考えるのが合理的です。

余剰発見が少なく、早く介入すればQOL低下が抑制されるので効果総量が大きくなるであろう、との考えは、一見すれば尤もらしく思えます。けれど、実際にはそうではありません。まず一つには、余剰発見が少ないという前提が仮定でしかありません。

余剰発見がほぼ全てであるという主張も仮定ですが、それがほとんど無いとの主張も仮定です。余剰発見の推計は極めて難しく、特に甲状腺がん検診のようにRCTや良質の観察研究に乏しいものは、具体的な割合を示す事は出来ません。甲状腺がんの流行が起きていないのなら、現段階での発見数で成人の発見数が補われる必要があり、それは不合理なので、余剰発見がほとんど無いとするのは無理がある、ような見かたは出来るでしょうが、いずれにしても、このくらいの割合であろう、と示せるようなものではありません。

もう一つは、

仮に余剰発見がほとんど無いとしても、そこからQOL関連の効果が得られる事は自明で無い

という観点です。

早く見つけたら侵襲が少なく、その後の後遺症等も少なくなるのでは、とはいかにも成り立ちそうですが、そうではありません。そもそも甲状腺がんの自然経過の具体的な所は不明です。特に小児はそうです。罹ってからどの時点で介入するのがベストなのかも判りません。ほんらいは、対照して比較すべきですが、それも倫理的コスト的に出来ません。早く見つければ良いだろうというのは、

早く見つければ良いと言える自然経過を勝手に前提している

に過ぎません。早く介入すれば良い効果があるものがたくさん見つかるのだから、それを見つけるのは良い事である、と考えているだけです。

QOLと声高に言う論者で、QOLを定性的にしか論じない、極めて粗い主張しかしない人がいます。もしかすると、早い介入のほうが侵襲は少なくて済むのかも知れません。しかし、そこから早く介入したほうが良いと、すぐには言えません。

対象は小児ですから、相対的に余命が長いです。これは余剰発見が少ないであろうと推論する材料および、早い介入の正当化にも用いられる要因ですが、これは同時に、

病悩期間を大きく延ばす要因

でもあります。今は、介入が寿命を延ばさないのが前提です(死亡回避効果は乏しい)。そうすると、早く介入した場合、

寿命は延びず病悩期間が延びる

のを意味します。余命が長いのだから、病悩期間は十数年から数十年延びると考えられます。そして介入は少なからずQOLを下げるので、

病悩期間の延伸はQOL低下を伴う

のを意味します。早く介入する事で侵襲が小さくなろうが、身体的心理的な負担は必ず生じます。経過観察はずっと続きますので、その期間、QOLは下がったままです。これを、

介入を遅らせた場合のQOL低下

とどう比較しますか? 確かに介入を遅らせれば、侵襲は大きくなるのかも知れません (もちろんこれは仮定です)。しかし、早く介入した場合のQOL低下を伴う病悩期間延伸は生じません。病悩期間は十数年以上は異なってくるでしょう。

QOL定量的評価として、

生存期間にQOLで重み付けする

という考えがあります。指標としてはQALYなどが用いられます。QOLの程度を量的に測り、それで期間を重み付けして総合していくのです。がんのように、病悩期間が長い場合は、Y(Year)です。検診で病気が見つかって処置を受けたら、何十年もQOLが下がったままとなる可能性があります。では、

下がる深さはそこまででも無いが何十年も続く

のと、

下がりかたは深いが年数はずっと短い

のとでは、どちらが良いですか? 簡単には答えられないでしょう。QOLがどうと定性的にしか言わない人は、そこを見ていない訳です。死亡回避効果の主張に無理があると解ってQOLの議論に持ち込んだとしても、また別の難しい観点に移っていくのです。死亡に着目するよりも難しいかも知れません。

これらの観点をきちんと押さえない事には、建設的な議論は見込めません。

応用問題──診断と余剰発見

余剰発見の議論等について知っている事が前提です。

福島の検診では、細胞診は確定診断ではありません。手術しないと診断に至りません。

じゃあ、

余剰発見例は必ず過剰処置される

と言ったほうが良いでしょうか。だって、余剰発見の必要条件は、確定診断される事であり、確定診断の必要条件は手術される事で、過剰処置の定義は、処置された余剰発見例なのですから。難しいですね。

確定診断では無くても、細胞診で悪性ないし悪性疑いと判定された例は、実質的に、がんと看做していると言えます。色々の議論でもそうですね。でも、実際には確定診断されていない。それをどう考えましょう。検診を受けた側としては、細胞診で陽性だった場合にがんであると認知するものでしょう。そりゃそうです。

これは、かなりシビアな問題です。診断とは、とか、医療を受ける側がどう捉えるか、とか、いくつも考えるべき事があります。悪性ないし悪性疑い例は確定診断されていないのだから、定義上甲状腺がんの余剰発見(過剰診断)では無いと言われた場合、どう反論しますか?

『Thyroid Cancer Explore Vol.2 No.1』に収載の『小児・若年者甲状腺癌の細胞診・組織診』において坂本は、甲状腺がんの診断が特異な事を指摘しています。また、穿刺吸引細胞診を、腫瘤形成性甲状腺疾患の治療開始前の診断と書いています。もちろん、手術材料の組織診が確定診断です。診断が二段なのかとなるのでしょうか。

ちなみに、上記参考文献の著者の坂本は、例の寄稿の著者である、あの坂本氏です。

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もう少し考えてみます。

実際に、二段診断と捉える事が可能かも知れません。つまり、細胞診の結果を、結節や腫瘤の診断と考え、手術後組織診をがんの診断と見る訳です。

しかしこうすると、検診の結果で悪性ないし悪性疑いと判定され、かつ手術されていない症例で、それが症状の原因にならない疾病であった場合、

まだがんの余剰発見では無い

と言えます。いや、そう言わなくてはならないとしたほうが良いでしょうか。

これは、大腸がん検診や子宮頸がん検診において、前がん病変を見つけ介入する事になぞらえられるかも知れません。そこでは、

がん検診

をおこない

余剰発見が生ずる

けれども、そこには

前がん病変の余剰発見

も含まれる訳です。それを踏まえれば、福島の検診では、

結節や腫瘤の余剰発見が生じ、その中には甲状腺がんの余剰発見も含まれる

と表現するほうが、冗長ですが正確でしょう。

しかるに、です。甲状腺がん検診では、細胞診の結果は悪性ないし悪性疑いと表現されます。全例に組織診をしていないのだから、疑いと入れておかざるを得ない訳ですね。これは、子宮頸がん検診などと異なる所でしょう。なぜなら、前がん病変であると判明するのは、同時にがんで無いと判明するのを意味するのですから。逆に甲状腺がん検診の場合で悪性ないし悪性疑いとするのは、どちらか判らないままの状態です。そういう状態なのに語に悪性が入っている。これは、受け取る側にとっては極めてインパクトの大きいものです。つまり、検診におけるいわゆる

(悲観的な)ラベリング効果

に関わります。そういう心理的な部分に強く関わる表現を用いているのです。

このあたりも含めて検討していくと、福島の検診の問題は相当複雑である事が解ります。実際、福島の検診では、

おそらく腫瘍の余剰発見だが、甲状腺がんの余剰発見で無い例

が1例あります。ここでおそらくとしたのは、手術した結果で良性腫瘍と判明したからです。