ホメオパシーを批判する事

言及します。

ホメオパシーレメディには、それ自体に効果は無い、という所には諒解が得られるものと思います。ところで、ホメオパシー側は、レメディに効果が無い事を認め、それをきちんと説明しているでしょうか?

受ける側がプラセボだと知っていてもプラセボ効果が発現する、という研究があるのはその通りですが、その事は、療法と称してプラセボを与えるのを正当化しません。繰り返しますが、そもそもホメオパシー側は、自分たちが与えているものがプラセボであると、与えられる側に対して伝えていますか?

EMについて、効くと思って飲めば本当に効く、とおっしゃっていますが、ここでプラセボ効果が発揮されるのを本当にと表現しているのがズレていますし、効くと思ってという所は、効くと思わせる事とセットで考えるべきでしょう。効くと称して与えるのですか?
それから、EMを与える行為に伴うプラセボ効果があると前提されていますが、それ自体の根拠が示されていません。悪化を防げる可能性は大きいとは、どこから導かれたものなのでしょうか。

お母さんに対するプラシーボ効果とは、端的に意味が解りません。

プラセボを医療的文脈で使用するには、少なくとも

  • 受ける側にプラセボである事を知らせる
  • 社会的に、プラセボが与えられる事を受け容れる

このような条件が要るでしょう。これを社会全体として許容しなければなりません。当然、プラセボを与えられたく無い権利も尊重されるべきです。

無条件に「批判」とありますが、無条件にの意味が不明瞭です。一般的には、ホメオパシー科学を称するので批判されていますし、ケイツーシロップの事件では、必要な標準医療を施さなかった、あるいはそれを忌避させた、という所が批判されました。

安易な批判とありますが、安易の意味が不明瞭です。食べ過ぎは良くないといった表現が必ず正しいように(過ぎ、の表現が、適量を超えているという意味を含んでいるため)、それはそうだ、と同意は出来ますが、じゃあ具体的にどのようなものか、がよく解りません。

批判が相手を頑なにさせる事は、実際にあるかも知れません。これは、批判的言説をどこに向けるか、の問題です。他のかたも指摘するように、信じ込んでいる人に直接、と言うよりは、半信半疑であるとか、カジュアルに信じている、といった人を対象にする場合があります。私などはそうです。

ホメオパシーを全体として否定という部分も不明瞭です。ホメオパシーは、自分たちのやっている事は科学だと称して、実態はプラセボたるレメディを効くと言って与える療法もどきですが、それについては、総体的に批判されてしかるべきと考えます。

EM団子と水質汚染に関しては、実験環境でも無い河川に、効果の認められていない物を、効果があると吹聴され投入する事が、そもそも許容出来ないでしょう。

福島の話については、単純に優先順位や関心などの問題であって、たとえば、あなたはそんな記事を書いていないで……と同じく指摘されればどう返すでしょう。そんな事を言ってもしようが無いですよね。

、EM菌は水質を浄化するという研究も、日本以外では活発になされています。とありますが、研究と称するものが沢山ある事と、効果が認められる事とはまるで異なります。ホメオパシーも、研究と言っているものは多くあるでしょう。

EMについて、効果が無いと勝手に決めつけて云々とありますが、では、どのような証拠や結果があれば効果が無いと認められるとお考えでしょうか。

他人に勧める行為に対して、「あなたはそのようなことをするべきではない」と言えるかどうかは、どのような人がどのような人に、どのように勧めるか、という文脈次第でしょう。がんの標準治療を受けるかどうか、と考えている人に対して勧めて良いですか? 医療者の肩書を持つ人が勧めて良いですか?

保険と関係無く出来るので代替療法としての価値がある、とおっしゃいますが、だから勝手に価格を決められます。レメディは安いですか? ちゃんと、効かない事を納得させつつ価格を提示していますか?

「効かないから」というのは批判として意味をなさん、いうことやな。
効く・効かないや、効果の意味内容をきちんと定めて議論すべきです。ちなみに、医学医療では、与えるそのものが発揮する効果を、特異的効果と表現し明確に区別する場合があります(『代替医療解剖』など参照)。今の文脈で言えば、ホメオパシーレメディ自体の効果がそれで、プラセボ効果は、そもそも除外して考えます。臨床試験で採用される、プラセボ群対照の二重遮蔽試験などは、特異的効果を評価するための研究デザインです。

現に「有効」である以上と書いておられますが、何が有効でどの程度有効であるのか、示されていません。