統合医療と、科学の方法

結局、統合医療の言い分(どこまで一般的かは判りませんが、ある程度共通しているでしょう)としては、

 統合医療は文脈依存的、情況論的な方法、つまりホリスティックな方法であるから、現代科学のスタンダードである所のRCTという、アトミスティック(要素還元主義的)な方法には馴染まない。

といった感じでしょうか。
なるほど、実験という人工的な、設定された情況は、確かに、実際に患者と医療者が関係を取り結び、色々の診察や療法が行われる、という場とは異なっている、という主張は理解は出来ます。行う方法、与える物や使う道具と、それに関わる「全体」が重要、と言いたいのでしょう。
そのような論理を前提しているから、RCTでは評価しにくい、けれどコーホート研究のような観察研究ならば、より実際の情況に近いかたちで、つまり生態学的妥当性の高い状態で検討出来る、という主張になるのだと思われます。

しかしそうすると、「効果を主張したいそのもの」が効く、という事をどのような論理でもってアピールするのでしょうか。
実験研究より観察研究の方が、より実際的な情況を把握出来る場合がある、という事は理解出来ます。しかしたとえば、「○○という療法の□□の部分(与える物体、手技、使う道具、等々)が効く」のを、より厳密に主張する事は可能でしょうか。
なにしろ、全体的、文脈依存的、を強く主張しています。だからコーホートを観察、対照して比較すれば……となる訳でしょう。ですが、もし、その有用さをアピールしたい療法を与えた群に効果があったように見えたとして、そこに、「それは、効果を主張したい療法“以外”の作用なのではないか?」と反論されれば、どう返すでしょうか。
つまり、統合医療をアピールしたい人々は、その療法は全体的・情況依存的であるから、過度に分析的である(と思う)RCTは馴染まない、といっていますが、その主張は、「効くと言っているもの“以外”が効いている」可能性の排除に消極的である事を示さないでしょうか。

要するに、要素還元主義的なRCTでは、全体的な統合医療の評価には不向きだ、だからコーホートで、と言ったら、でもそれでは「何が」効いているかきちんと解らないのでは? と返される。
たとえば、その何とか療法が効くとか言うけれど、それは単に、「何かしていると思わせる」事が作用しているんじゃないの? という反論。治療者の雰囲気、部屋の雰囲気、「何かを与えられている」という思い込み(広い意味での「プラセボ効果」)、等々が働いているのでは、と批判されたらどうするのでしょう。

まさか、統合医療を主張する人は、「プラセボ効果で治す」と言いたい訳ではありますまい。療法として使える、とアピールするのだから、その療法独自の方法そのものが効く、つまり、それに「特異的」な効果がある、と言いたいはずです。

まさか、「プラセボ効果などほぼ無い」(概念自体の否定)とも言わないでしょう。その作用はかなり大きくなる、というのは前提でしょうから(だからブラインドテスト等の概念がある)。

その療法自体がプラセボ効果的な心理的社会的作用のみで構成される、と主張したいのならともかく、そうで無いのなら、「その療法に特異的な」効果をどのようにして検討すべきか考えるべきですし、先程書いたような反論(情況云々と言うが、観察研究で実際に効いたように見えても、それはプラセボ効果ホーソン効果――実験者効果――の可能性は無いのか?)への答えも用意されてしかるべきでしょう。