《過剰診断》ばかり

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UNSCEARによる報告。これが与えるインパクトは大きく、各マスメディアも採り上げています。いや、マスメディアがインパクトを増幅させている、と言ったほうが良いのかも知れませんが。

で、私が懸念していた通り、当該文書にて過剰診断の可能性が取り沙汰された事によく言及され、それがあるか無いか、ばかりが議論されています。検診の是非も、過剰診断があったかどうか、の観点が中心になっているようです。

ここでも何度も言っているように、検診の実施の是非は、まずもたらす効果に着目して評価すべきです。その上で、トータルの効果が害を上回れば、実施が正当化されます。もちろん、上回るとは、単に件数を比較するのでは無く、重み付けをおこなって検討する訳です。しかるに、議論されるのは、過剰診断があるかどうかという、害の一部の話ばかり。これでは、検診について適切な議論がおこなわれているとは言えません。このままだと、甲状腺がん検診のみならず、検診一般についても、きちんと是非を検討する事も出来ません。

もちろん、ほぼ全てが過剰診断であれば、自動的に効果は極小になって(過剰診断と効果発揮は排反だから)、実施すべきでは無い、となります。だから、過剰診断を前面に出す論者は、そこで頑張らざるを得ない訳です。ですが、過剰診断の程度というのは、RCTをおこなってさえ推計が難しいものであるのに(乳がん検診の議論などを参照すれば解ります)、福島の検診でのそれは現状、観察的(生態学的・時系列的)データから間接的に推測するのと、成人での知見を補外するしか無いものです。過剰診断は起こっているだろうとは言えても、それがどの程度であるかは、そう簡単に論じられません。

あまり過剰診断ばかりクローズアップすると、

  • 過剰診断があっても検診したほうが良い
  • 過剰診断が無くても検診しないほうが良い

これらの理屈も理解しがたくなります。私たちは、甲状腺がん検診にしか興味が無い訳ではありません。むしろ日常的には、その他の検診のほうが、遥かに身近であり、関係のあるものです(いわゆる5大がん検診)。それらについて適切に考え意思決定するには、検診一般に通ずる考えかたを押さえておく必要があります。であるのに、福島の議論に絡めて過剰診断にしか着目しないのは、好ましい事では無いでしょう。

過剰診断より先に有効性評価の話を

NHKの番組で、福島での甲状腺がん検診が採り上げられ、そこで過剰診断の考えも紹介されたようです。

私は番組を観られなかったので、その内容自体には触れませんが、twitterでの反応を見ると、やはり過剰診断の語に、よく着目されているようです。

ここで以前から書いているように、検診の議論において、過剰診断にばかりクローズアップされる事は、好ましく無いと思っています。検診の話をする時に、有効性評価の説明を疎かにして、過剰診断がどうこうと進めるべきでは無いと。

検診(に関わらず医療介入)は、害と利益のバランスを鑑みて、実施が検討されるべきものです。だから、過剰診断が起きる検診でも推奨される訳です。と言うか、推奨されるがん検診は、日本では5種類ありますが、いずれの検診でも過剰診断は発生します。ガイドラインでも、必ず害の評価の1つとして検討されているものです。推定は難しいので幅が大きいですが、乳がん検診でも、見つかったものの内、数十%は過剰診断であろうとの推計もあります(小さめの場合でも十数%)。

過剰診断がたくさん起きるから甲状腺がん検診をすべきでは無い、との意見は、その検診に効果が無いのを前提としているのでしょうが、それは簡単に理解できるものではありません。リードタイムバイアスやレングスバイアス(前提として、統計的推測におけるバイアスの考えかた)、死亡率と致死率の区別、RCTの理屈、といったものが解ってやっと、有効性評価の基本が認識出来、それが出来て初めて、実際に具体的な検診についてどの程度の検討がなされているのか、と考えを進められます。

過剰診断があっても検診したほうが良い、というのとは逆に、過剰診断が少なくても検診しないほうが良い場合もあります。予後を左右する時点の前で捕らえられなかったり、有効な治療法が無かったりすれば、無症状時に見つけても寿命を延ばせません。そういった疾病は、検診しないほうが良いのです。検診に伴う害は、過剰診断だけでは無いのです(検査に伴う身体的・心理的負担など)。

福島の甲状腺がん検診は、特殊な環境に置かれた地域での話ですが、有効性評価や過剰診断といった話は、検診一般に共通する考えです。他の検診についてもきちんと冷静に検討するには、そもそも有効な検診とは何かとか、評価するにはどうしたら良いのか、といった所を学ぶ必要があります。それをせずに、単に過剰診断に着目し、それを中心にして話をしようとすると、建設的な議論は望めないでしょう。