「食文化」と生レバー
先日の牛レバ刺し禁止を受けて、代わりに豚のレバ刺しを提供する店が出ている、というのが話題になっており、テレビ等でも紹介されています。その事を受けて、食品安全委員会も注意喚起を行いました⇒食品安全委員会:豚肉や豚の内臓(レバーなど)による食中毒等にご注意ください | 食品安全委員会 - 食の安全、を科学する
そのような流れで、「また食文化を制限するのか」という擁護的意見があり、またそれに対して、「豚肉(や内臓)を生食する事の何が食文化か」という批判が行われたり、議論になる場合があります。
私はそういうのを見て疑問に思うのです。
食文化云々と言う人は、何をもって「食文化」とそうで無いものを分類しているのでしょうか。それは、習慣とされてきた時間的な長さによりますか? それとも、食される空間的な広さによって決まるのですか? あるいは、他に何か注目すべき条件があるのでしょうか。
食文化である/で無い というのをある程度明確に、合理的な根拠でもって論じられるでしょうか。
私としては、生肉を食する事を規制したり注意喚起される時、食文化を制限するのか、という意見があった場合には、「食文化であったとして、それがどうした?」と考えます。と言うか、食文化だ、いやそうでは無い、と云々する人双方に私が訊きたいのは、「対象が(あなたが思う)“食文化”であったとして(無かったとして)、その条件が規制等の判断を大きく左右するのか」という事です。
食べ物に限らず、何かが規制されたり注意喚起されるのは、公衆衛生上無視出来ないリスクがあると認められ、それが周知されないままに普及した、あるいはしそうであるから、でしょう? それは、現状評価されるリスク及び、広まっている度合い(たとえば、飲食店におけるメニューとしてどのくらいポピュラーか)、そして、食べる側と供する側がリスクをどのくらい正確に認識しているか*1、という部分が関わるのであって、長く親しまれてきたから、とか、ある地域では根付いたものだから、というのは*2、別の事として措いておくべきではないかと思う訳です。
規制や注意が理不尽だと考えるのであれば、規制の根拠が合理的で無いとか、リスクは充分に周知されている、とかの方面からアプローチするべきだし、規制や注意も已む無し、と考えるのなら、その根拠である、科学による明確なデータを提出して説得するべきでしょう。「食文化」を前面に出してアピールするという事は、それが規制等の判断を左右する大きなファクターであると看做しているのを意味すると思うのですが、違うでしょうか? そうであるとしたら、何故それが重要な条件であるのか、きちんと合理的に説明出来るのでしょうか。
2012年10月6日:ここから追記
文化を言い訳にしてはいけない - novtan別館
同じような観点から書かれた記事。主眼は違うけれど。大筋同意です。
で、
肉の生食なんて言う日本の伝統文化でも何でもない(いや、一部の地域では違うかもしれないけど)もの
括弧書きで付け加えてはいるけれど、「伝統文化でも何でもない」みたいな事もあんま言わんで欲しいなあ、とも思う訳です。
もうですね、その「一部の地域」の者にとっては、子どもの頃から食べ慣れていて、周りの人間も皆食べるようなものなので、文化以外の何ものでも無いのです。「伝統」をどう捉えるかな、というのも議論としてあるだろうけれど、私などにとっては、そういう食習慣について、文化かそうで無いか、という議論が行われる意味自体が解らないくらいに定着しているものなので。経験的に染み付いていて、直感されるものなのですね。
それで、私のような者が、一旦自身の習慣を相対化して考えるのも意味があろう、と考えてこのようなエントリーを書いているのでもあります(私は、そもそも文化であるか否かの評価は措いておくのが重要、と書いた)。
日本という空間的な範囲においては定着していない、という意味では、確かにそうなのでしょうけれど、一部での習慣である(でしか無い)事をもってそう言われると、じゃあ自分達の地域は「日本」では無いんか、みたいに思ったりもね(別に、「日本」がどうという所に拘っているのでは無い事は強調します)。
これは、言葉尻を捉えるというのでは無く、「日本」とか「文化」とか、「伝統」といった言葉を使う事が難しく、シビアである事を示すものだと考えています。